まるで大河が一気に押し寄せて耳を覆ったかのように、頭がぐらぐら揺れる。
平地に立っているはずなのに、森田灯の鼓膜には潮騒の轟音が満ちていた。
魂がふわりと体から抜け出すような感覚のまま、彼女は口を開いた。
「赤ちゃん……?何週目ですか?」
「9週よ」
「……あぁ、あなたが帰国したあの日。」
自分の声がまるで他人のもののように、冷たく機械的に響いた。
夏蓮は、相手の顔にもっと痛みや絶望、叫びが浮かぶのを期待していた。
だが目にしたのは、ただの淡々とした冷静さ。
それが逆に胸の奥をざらつかせ、思わず言葉を重ねた。
「渡辺のお母様はもう約束してくださったわ。もしこの子が男の子なら、必ず私を正妻として迎えてくれるって。
私が帰国したのも彰のため。キャリアなんて全部捨てて、良妻賢母として尽くす覚悟よ。森田さん、あなたも少しは自分の体面を大事にしたら?本来あなたのものじゃない立場から、早めに降りたほうがいいわ」
森田灯はじっと彼女を見据え、しばし沈黙した。
その眼差しに思わず須藤夏蓮の方がたじろぎ始めた頃、灯はふっと笑みを漏らした。
「そんなに自信満々なら、わざわざ私に退くよう説得する必要なんてないでしょう。
――二十億円、彰に払わせれば、私は文句言わず身を引きますよ。お金と喧嘩するつもりはありませんから。」
「二十億?」夏蓮は嘲るように鼻で笑った。
「やっぱり噂通りね。恥も外聞もなく、身体を売ってでも金にすがる成り上がり女。みっともないわ。忠告するけど、これ以上彰を怒らせたら、どれほど恐ろしいことになるか分かってる?」
「……恐ろしいこと?」
灯は思わず吹き出しそうになった。
さっきまで胸を満たしていた悲しみも、今は霧散している。
「さすがは元大女優、演技力は健在ですね。舞台もないのに、ここで芝居を始めるなんて。
『恐ろしい結果』って何ですか?臓器売買?それとも死体隠し?
残念だけど、ここは北の無法地帯じゃなくて、日本ですよ。法治国家でその台詞、検閲通ると思ってるんですか?」
そして彼女の視線は、夏蓮のお腹へと向かう。
「どうぞそのまま、『母は子によって貴ばれる』を貫いて、東宮にでも入って皇位でも継いでくださいな」
言い捨てると、灯は背を向けて歩き去った。
須藤夏蓮の顔は怒りに歪み、しかしどうすることもできず、ただその背中を睨みつけるしかなかった。
病室に戻ると、凪がすでに帰ってきており、灯がいないのに気づいて大慌てで歩き回っていた。
「ちょっと!さっき清創したばっかりなのに、どうしてベッドから勝手に起きるのよ!」
彼女は半ば抱きかかえるように灯の腕を取り、その腰を支えた。まるで壊れ物を扱うみたいに。
「スマホ忘れてたでしょ。届けたかったの」
灯は小さく笑いながら、ポケットから携帯を取り出して渡した。
凪はそれを受け取りながら、じっと灯の顔を覗き込む。
「ほんとに?顔色、めちゃくちゃ悪いんだけど……もしかして、誰かに会った?」
「……私、そんなにひどい顔してる?」
一瞬否定しかけた灯は、ふと眉を寄せ、逆に問い返した。
「ねぇ、誰に会ったって思ったの?」
「えっ……」
凪は自分の軽口を後悔し、慌てて口を押さえた。
だが灯の「話すまで許さない」という視線に観念して、小声で答える。
「……須藤夏蓮。彼女、病院のVIPフロアに入院してるらしいの。私、携帯忘れて看護師さんに借りたときに聞いちゃったんだけど……。
今夜、背の高いすごくイケメンの男が彼女を抱えて運び込んだって。みんな噂してた、その人が例の『謎の大物』じゃないかって。」
さらに声を落として続ける。
「でね、その夏蓮が入院した理由……実は……」
「妊娠してたの。」
灯はあっさり口にした。
凪はうなずきかけて、はっと目を見開いた。
「……あんた、本当に会ったの!?」
灯は枕に頭を沈め、しばらく黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。
「正直ね、さっき彰が凪の家まで私を探しに来たとき……ほんの少しだけ、本気で心配してくれてるんじゃないかって思ったの。
その一瞬だけでも、悪くない気がして……後悔しそうになった。『こんなに時間を一緒に過ごしてきたんだから、もう少し頑張れるかも』って」
「でも結局、私がどう思おうと関係なかったのよ。
最初から最後まで、私はただの『部外者』だった。」
長い沈黙の後、彼女は手を伸ばした。
「凪、スマホ貸して。メッセージ送る」
凪は一瞬迷ったが、結局渡す。
灯は見たこともない番号を打ち込み、ゆっくりと文章を綴った。
――『明日の午後三時、区役所で。結婚証明書は寝室のタンス三段目の小さな金庫。暗証番号はあなたの誕生日』
送信して一秒も経たないうちに、返信が返ってきた。
――『暇がない』
灯は少し止まり、再び指を動かす。
――『じゃああなたが時間を指定して。この週のうちに終わらせましょう』
――『今週は無理だ。それに結婚証なんて探してる暇もない』
画面を覗き込んでいた凪は、思わず悪態をついた。
「何このクズ男!離婚する暇もないくらい忙しい?じゃあ国連事務総長にでも立候補しとけっての!」
灯は小さく息をつき、結局は正面から打ち明けることにした。
――『もう引き延ばす必要ないでしょ。早く終わらせましょう。あなたも須藤さんに愛人のレッテル貼らせたくないでしょ?』
送信して間もなく、携帯がけたたましく鳴り響いた。
静まり返った病院の廊下に、妙に軽快な着信音が響き渡る。
灯は呆然と画面を見つめたまま動けなかった。
結局、慌てた凪が代わりに通話を繋げる。
「森田灯、ふざけるなよ。お前、家で暇すぎて頭でもおかしくなったのか?一日中妄想ばっかりして、人の時間を無駄にして……。俺がそんなくだらない茶番に付き合うと思ってるのか?」――冷酷な声が、夜の静寂を切り裂いた。