――ぱたり。
灯がさっき剥いたばかりの葡萄が、床に転がり落ちた。
マンションのエントランスを出ると、正門の前に黒塗りの車が停まっていた。
彰がドアにもたれかかるように立ち、数メートル離れたところからでも圧迫感のある気配が伝わってくる。
灯は心の中で小さく深呼吸を繰り返した。もう言ってしまったのだ。死んだふりをする豚が熱湯を怖れる理由なんてない――そう自分を鼓舞しながら。
「なんで電話に出なかった?」
低い声が冷えた夜気を切り裂く。
「いちいち友達の家に転がり込んで……お前、自分の家はないのか?」
深夜の風は刺すように冷たい。
一晩中病院で点滴を受けていた体はすでに弱り切っていて、その冷たさが骨まで染み渡る。灯は思わず身体を小さく震わせ、やっとの思いで声を絞り出した。
「……ないよ。あそこは、私の家じゃない」
顔を上げて渡辺を見つめ、かすかに笑みを浮かべる。
「それに……私たち、もう離婚するんでしょ?」
「ふざけるのはもうやめろ」
抑えていた怒りがついに爆発し、彰の声は鋭く響いた。
「くだらない手で俺の気を引こうとするな。今はまだ怒りきっていないうちに、その悪ふざけをやめろ。大人しく『渡辺家の妻』を演じていればいい」
寒風の中、少女の身体は細く頼りなく、薄いコートが風に煽られて、肌の白さをより一層際立たせていた。
喉まで出かかった言葉を彰は飲み込み、彼はドアを開けながら苛立ちを隠さず告げる。
「今日のお前の言葉は聞かなかったことにする。だから今後はくだらないことを言うな」
彰にとっては大きな譲歩のつもりだった。
彼の予想では、灯はすぐさまこれまでと同じように、嬉しそうに飛びついてきて抱きつき、「心配してくれた?」と何度も甘えてくるはずだった。
しかし、開いたドアの前で五分経っても、灯は一歩も動かない。
渡辺の忍耐が完全に尽き果てた。彼は強引に灯の手首を掴み、そのまま車へ押し込もうとした。
「ここで無駄に時間を使ってる暇はない」
灯は抵抗せず、そのまま引き寄せられた。そして彼の鼻先に吐息が触れるほどの距離で、ぽつりと問いかける。
「彰……私たちの結婚、正常だと思う?」
その瞬間、渡辺の手の力が緩んだ。
灯は不意を突かれて車のフレームに額をぶつけ、小さく呻く。額を押さえて顔を上げると、渡辺の暗い表情が目に入った。彼女は苦笑を浮かべる。
「私は正常だと思えない。あなたに愛されたいとまで望んでない。たとえビジネスパートナーとして扱われても構わなかった。ただ、ほんの少しでいい、尊重してくれたら……それだけでこの結婚を守るつもりだった」
「でも、あなたからは何もなかった」
灯は視線を落とし、渡辺の手をそっと押しのける。
「あなたにとって私は、金にしがみつくためにあらゆる手を使って、『渡辺家の妻』の座を奪い取った女に過ぎないんでしょ」
「違うのか?」
渡辺の指が逆に強く食い込み、灯の白い手首が瞬時に赤く染まる。
「自分でよく分かってるはずだ。お前の家族がどれだけ俺を利用してきたか。結婚式の日でさえ、お前の父親は『渡辺家の娘婿』という肩書きを使って会社への投資を乞うてきた」
灯の目に涙が滲む。その姿を見て、彰は妙な痛快さと、説明できない苛立ちを覚える。
やがて彼は手を離し、嘲るように目を細めた。
「そんな家と女が、尊重を求める?笑わせるな」
怒りを吐き出して気が晴れたのか、彼は車へ乗り込もうと背を向ける。「もうくだらない真似は――」
「だから、離婚しよう」
灯の瞳が潤み、一粒の涙が頬を滑り落ちたが、彼女は素早く拭った。
「ちょうどいいじゃない。これであなたも『寄生虫』から解放される」
――バンッ!
渡辺は振り返ることなくドアを叩き閉め、アクセルを踏み込む。黒い車は夜の街へ消え去り、そのまま冷たい排気ガスだけを残した。
灯は風に吹かれながら立ち尽くし、頬を伝った涙が首筋を濡らしたところで、ようやく自分が声をあげて泣いていることに気づいた。
彼女はゆっくりとしゃがみ込み、肘に顔を埋め、ひとりかすかに笑った。
――喜ぶべきことじゃない? やっと、この偽りの結婚から解放されるのだから。
「何があったの?!」
窓からずっと様子を見ていた凪は、渡辺が車を走らせて去るのを見届けてから慌てて階段を駆け降り、灯のもとに駆け寄った。
だが灯は頭を抱えたまま沈黙し続ける。
「ねえ、どうしたの?渡辺にまた何か言われた?それともお父さんが何か……お願い、返事してよ!」
「凪……すごく痛いの」
顔を上げた灯の瞳は涙でにじみ、言葉も震えていた。
「もう痛むはずないのに、どうしてこんなに……」
その意味不明な言葉に凪は首を傾げかけたが、すぐに視線が灯の下半身に落ちて血の気を失った。
「灯、お前……出血してるじゃないか!気づかなかったの?!」