第07話:最後の期待
レストランの暖かい照明の下で、雫は自分の皿を見つめていた。シーフードパスタの湯気が立ち上っているが、食欲は湧かない。
彰は美夜の隣に座り、楽しそうに話している。
「このチーズフォンデュ、昔よく食べたよな」
「覚えてる!彰さんがいつも私の分まで食べちゃうの」
美夜が笑いながら答える。彰も嬉しそうに頷いた。
雫は静かにフォークを置いた。
「気分が悪いから、先に帰らせてもらう」
彰が振り返る。
「え?まだ食事の途中だろ」
「つわりがひどくて」
雫は立ち上がろうとしたが、彰は美夜の口元についたソースをナプキンで拭いてやりながら答えた。
「先に帰ってていいよ。美夜が食べ終わったら、すぐに戻るから」
その瞬間、雫の心に冷たいものが流れた。
妊娠中の妻より、幼なじみを優先する。
「わかった」
雫はバッグを手に取った。その時だった。
「火事だ!早く逃げろ!」
誰かの叫び声と共に、けたたましい火災報知器のベルが店内に響き渡った。
客たちが一斉に立ち上がり、出口に向かって殺到する。椅子が倒れ、皿が割れる音が響く中、雫は反射的に彰を探した。
彰は——
美夜を抱きかかえて、一目散に店外へ走っていく。
雫のことなど、まるで存在しないかのように。
妊娠中の妻を完全に忘れて。
雫は人波に押し流されながら、ゆっくりと店外に出た。心臓の鼓動が妙に静かに聞こえる。
十分ほどして、誤報だったことが判明した。
人々がぞろぞろと店内に戻っていく中、彰と美夜も姿を現した。
「お前のことは、一生守るって」
彰が美夜の耳元で囁いている。
美夜は彰の胸に顔を埋めて、小さく頷いた。
雫は二人を見つめながら、ある記憶が蘇った。
三年前の山登り。雫が足を滑らせて崖から落ちそうになった時、彰は美夜の手を握ったまま、雫に「自分で何とかしろ」と言い放った。
あの時と同じだ。
ようやく、雫は悟った——これまでの何年もの間、彰は一度だって、自分を愛したことなどなかったのだ。彼の心の中で、何よりも大切なのは、いつだって初恋のような存在、美夜だけだった。
「雫」
彰が慌てたように近づいてくる。
「すまん、美夜は芸能人だから、絶対に怪我させるわけにいかなかったんだ」
雫は静かに彰を見上げた。
「わかってる」
「え?」
それ以上、聞く必要はなかった。
美夜が急に咳き込み始める。
「大丈夫か?」
彰は再び雫を放置して美夜の元へ駆け寄った。
「家まで送るよ。車、呼ぶから」
「ありがとう、彰さん」
美夜が弱々しく微笑む。
雫は二人の様子を静かに見つめていた。そして、初めて心の底から微笑んだ。
もう、何も期待しない。何も求めない。