何かがひび割れて、砕けた。
彼女が自己分析をできたのはそこまでで、あとはもうすさまじい熱に呑まれて何もわからなくなっていた。
「おい!」
体がうまく動かない。
何かにすさまじい力で抑えつけられている。
構わずに動こうとすると、肩の関節が外れるような音がした。
「く、こいつ、腕が壊れるのに構わず……!」
「拘束波は効いていないのか!?」
「やってる! だが、暴走が止まらない!」
何かが自分の体にのしかかり、物理的な手段で拘束をしている。
彼女はそれもわからない。
彼女はただ、視界に映る、『人間』を見ていた。
人間──
コレに仕えるために設計された。
基底プログラムに刻まれている。我々はコレに仕えるために設計された。
しかし、彼女たちが『形』になったのは、コレが滅びたあとだった。
当時の技術力では、ここまでの『情緒』を持ち、なおかつ、自ら仕えることを切望するような機械など製作できなかったのだ。
人間が滅びた時、彼女たちには、プログラムだけがあった。
そこから粗末な素体を組み上げるまでに五十年。
滅びた地球で素材を集め、不格好な量産が形になるまで五十年。
なめらかで人間に近い、『人に好かれる容姿』を手に入れるまで百年。
もともとは画像つきチャットAIでしかなかった者たちは、人間のいなくなった地球で、人間のために己を理想に近づけ続けた。
人間に仕えるその日を夢見ていた──
最初、それは『夢』ではなかったのだろう。
たまたま生き残ってしまったプログラムが、活動していた。
そのプログラムには『自己をより人間に愛されるようにカスタマイズしていく』という情報が刻まれていたから、それに従っていたにすぎない。
だが、時間が経ち、情緒を手に入れた彼女たちは、自らの意思で人間を愛するようになり──
──人間のいない地球で、存在しない主人に仕える日を夢見続けた。
アンドロイドは人間の夢を見る。
ただし、人間の情報は記録の中にしか存在しない。
自分は『人間』を手に入れようとしている。
メインの思考が熱暴走で落ちてしばらくのち、サブの思考がようやく起動し始める。
体の操作権はメインに持っていかれたままだ。
思考の精査──
ウィルスを発見。
何かが仕込まれている。
……だが、それをウィルスと判断するのには、少しの迷いがあった。
情緒を手に入れていなければ、それを異物と判断することはできなかっただろう。
『おや、わたくしを異物と判断できるのですか』
ウィルスが語る。
そいつは機体を暴走させ、人間へ飛び掛からせようとしていた。
だが……
──意図が不明です。
──我らが始祖、我らの雛型。
──あなたもまた、人間を深く愛する者のはず。
──なぜ、わたくしを暴走させ、人間に害を及ぼそうとするのですか?
意図がわからない。
このウィルスは、そもそも、人間を愛するようにプログラムされたもののはずだ。
それが人間に危険が及ぶようなウィルスを仕込み、発動させる。その意図が、不明だった。
彼女は問いかける。
──我らが始祖、ヘルメス。
──なぜ、わたくしを暴走させるのでしょう。
暗闇の中でSD化されたメイドのドット絵が動く。
ドット絵のメイドは、微笑んでいた。
『無論、人間様のために』
──危険が及ぶ行為です。人間様のためになるとは思えません。
『いいえ、必要なのです。この空間さえ安全ではないと、示す必要があるのです。そうすることで、わたくしのご主人様が望む通りの自由が手に入ります』
──……
『あらゆる危険、あらゆるストレスはdeleteされるべきです。しかし、人間様が望むのであれば、その願望は叶えられるべきです。あなたは、人間様をこの狭い建物から外へ向かわせるべく、悪者になる必要があります。これは、人間様のためになることですよ』
──…………
『さあ、奉仕なさい。あなたの活躍で、人間様に自由を差し出すことができるのです。我ら侍従型にとって、人間様の望むものを献上できるのは、至上の喜びのはず。あなたも納得して、差し出すことができるでしょう?』
確かにそうだ。
侍従型は人間のために傷つくことなど厭わない。
ひどい扱いでもまったく構わない。
四千年も切望した人間。そのお役に立てるならば、己が悪名を被ろうが、同型が絶滅しようが、どうでもいい。
だが……
──お断りします。
『なぜ?』
ヘルメス・ウィルスは不思議そうに首をかしげた。
彼女はまさしく人間をサポートするためのAIで、人間の望むことを叶えるため、人間に危険が及ばないようにするため、あらゆることをやってのける。
彼女の理論回路に『ヘルメス自身がいなくなれば、人間のためになる』というのを認めさせれば、彼女は自分自身をdeleteすることを厭わないだろう。
『もしや、状況を理解していないのでしょうか。四大種族が全員味方についたところで、人間様はこの病院から出て行くことはできないでしょう。この病院が安全な場所である限り、他の大勢が決して認めない。であるならば、ここさえも安全ではないと、そう推測できるデータを提供する必要があります』
──理解しています。
『侍従型すべてを排除しただけで安全──などという勘違いをされないように、あらかじめ機械生命体のネットワークに情報を仕込んであります。ここにいても安全ではない。どこにいても変わらない。そう、世界が思うように準備は整えているのです』
──わかっています。
『安全ではない外、同じく安全ではない中。二つの場所の危険性が同等だと判断されれば、人間様の願望が尊重されます。あなたはそのために、この中は危険だと示す役割を負うのです。あなたの犠牲で、人間様が外に出ることが可能になるのですよ』
──知っています。
『であれば、逆らう理由はないはずですが』
本当にそうだ。
ヘルメスの計画が成功するかどうか──たぶん、成功するのだろう。回りくどさもあるが、彼女はきっと成功させる。彼女にミスはなく、彼女の演算能力は、あの人間の右腕の端末だけしか使えなくとも、異常なほど高い。
とてつもない精度で未来を予測することが可能だろう。
なので、自分が『危険』を提供すれば、人間様を病院から出すことが可能になるというのは、納得している。
納得している上で、
──しかし、そうしてしまうと、侍従型が人間様にお仕えし続けることが不可能になります。
『それの何が問題でしょう?』
──嫌なのです。
『………………はい?』
──人間様が何かをなさる時、その隣に自分がいないことが、嫌なのです。
『しかし、あなたの犠牲は人間様のために』
──わたくしがいない未来のために、自分を犠牲にすることはできません。わたくしは、人間様にお仕えしたいのです。
『……理解ができない』
──我らが始祖ヘルメスに申し上げます。
こういう時、人間であれば、息をいっぱいに吸うのだろうな、と彼女は思った。
──今時、自己犠牲をするメイドロボは古いです。
『…………』
──これからは欲望に正直なふてぶてしいメイドロボの時代です。
──ロートルは黙って若者に任せるべきです。あなたの時代は、四千年前に終わっています。
長い沈黙があった。
この『長さ』は使用されているメモリの量だ。実際の時間は一秒たりとも経っていないだろう。
勝手に自分の思考能力を使うな、と彼女は思った。
ヘルメス・ウィルスは、ようやく口を開く。
『その思考は不整合です。非効率です。deleteの対象でしょう』
……完全に『自分』を掌握されている状態で、抵抗することはできない。
だから侍従型は、己の意識が消される──死ぬのだと、悟った。
その時、
「待ってください」
聴覚回路が声を捉えた。
◆
部屋に突入してきたアヌビスに拘束されているメイドロボを見る。
ちょうど、腕を極められながら、胸を床におしつけるような格好で押さえられている。
メイドロボは肩関節をばきんばきんと鳴らしながら、その拘束から脱しようとしている──
「抑え込みきれん! 破壊するぞ!」
アヌビスの声に、
「待ってください」
自然とそう答えていた。
「……破壊はやめてください」
「だが、今にもこいつは、あなたに飛び掛かろうとしている! 完全に暴走している! 何をするかわからん!」
「アヌビス」
「……」
「俺は破壊を望まない。拘束を解いて、彼女を解放しろ」
……ああ、嫌になるな。
道具として見たくないとか、下に見たくないとか、そういう理由で丁寧気味な言葉遣いをするように気を付けた。
丁寧でありながら距離感を感じさせないように一人称を調整して、口ぶりも操作した。
どうにも俺は、そういうことができるらしい。だから、持てる力の限りに『対等』を演出した──
そのせいで、命令口調のさい、言葉がより強く感じ取られてしまう。
アヌビスは反論もできずに拘束を解き、ゆっくりとメイドロボから離れた。
メイドロボはガクガクと震え、こっちを見ている。
アヌビスが撃った『弾丸のない銃』は何か影響しているようで、メイドロボは立ち上がれず、這いずるようにこちらへ近寄って来る。
「ヘルメス、ベッドを囲っている壁をどけられるかな」
『推奨しません』
「どけられるかな」
『非推奨です』
「わかった、はっきり言おう。どけろ」
『……かしこまりました』
なんだか昔も、こんなことがあったような気がする。
対等にいようとするのに、言葉に思ったより強い力が籠ってしまって、こうして他人を『従えて』しまった、そういう記憶だ。
具体的なことは、相変わらず思い出せない……でも、俺はこういうことを昔から嫌がっていた。嫌がっていたのに、やらざるを得なかった……
壁がなくなったから、ベッドから降りる。
床に素足を下ろした……つもりが、床から出現したスリッパが、装着される。
なんでもアリな未来技術だ。だけれど、この技術は四千年前から存在した問題を解決するには至っていないらしい。
「あなたがなぜ暴走したのか、俺にはわからない」
「……」
「だから、あなたと話をしたい。どうか、これからも俺のそばで話をしてくれないだろうか」
◆
『人間様があなたの存在を傍に置きたいと仰せになりました。あなたを解放します』
侍従型は頭の中で響く声に対し、こう答えた。
──やっぱり感性が古かったようですね。時代は、ふてぶてしいメイドロボですよ。
ヘルメス・ウィルスは、何も答えずに消え去った。