彼女は、少女の名前を口にした。
そうすることで、少しでも警戒心を解きたかった。
だが、いざ口にしてみると、今の彼女をどうすれば落ち着かせられるのか、具体的な言葉が浮かんでこない。
助けてあげる、と。見ず知らずの他人が、そう言って?
本当に、信じてもらえるだろうか?
案の定、自分の名前を聞いた綾辻依は、かえって体を激しく震わせ始めた。まるで、透こそが悪人だと確信したかのように。
彼女はさっと立ち上がると、よろよろと、もつれるような足取りで路地の出口とは逆方向へと走り去っていく。
樋口透は慌てて後を追ったが、路地を抜けたときにはもう、少女の姿は雑踏の中に掻き消えていた。
透はため息をつく。「まともに話すことすら、できないのか?」
どうしようもない。だが、諦めたくはなかった。
目の前をひっきりなしに車が流れ、人々が通り過ぎていく。透はふと、一週間前の少女との「初対面」を思い出していた。
一週間前、彼女の病状は急激に悪化し、病院からは高額な医療費を請求され、歩くことも呼吸をすることさえ困難になっていた。延命は、ただ自分を苦しめるだけ。
いっそ……死んでしまおうか。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、スマホに突如として、例のゲームアプリが出現した。
『七日間のカノジョ』。
その名の通り、スマホの中に、可愛いカノジョができた。
心配してくれて、気にかけてくれて、いつだって待っていてくれる。透がゲームを開けば、そこにはいつも、ベッドの上でちょこんと正座した女の子がいて、顔文字付きのダイアログがぽんぽん表示されるのだ。
ゲームは、いつしか彼女の心の拠り所になっていた。
ましてや今、このゲームは彼女が生きるための希望そのものなのだから!
……
【三周目】
再びソファで目覚めた透は、もう焦って路地裏へは向かわなかった。代わりに、午後の時間を使って、このゲーム世界について調べることにした。
ここは、彼女の現実世界と何ら変わりない。
体が女の子になったことを除けば、ギャンブル狂いの父親も、すでに別れた元カノの存在も、何一つ変わっていなかった。
唯一違うのは、体が健康なため、ゲーム内の透は病院で寝たきりではなく、昼は大学へ行き、夜はバイトに励むという日常を送っていることだった。
やがて、時間は夕暮れを迎える。
樋口透は早めに路地裏の入り口の外で待機し、通行人を装って、時刻が18:00になるのを待った。
チュートリアルイベントは避けられないという事実を証明するかのように、午後6時きっかりに、酔ってふらふらした、みすぼらしい男が角から現れ、路地裏へと入っていく。
ほどなくして、透の耳に、聞き慣れた少女の「こっちに来ないで」という声が届いた。
ヒーロー、いやヒロインがヒロインを救う、ってか。これこそが、チュートリアルで少女を家に連れ帰るためのシナリオだ。
あの子は、おそらく全ての他人に対して警戒心を抱いている。最初に接触して刺殺された自分も、会話に失敗した自分も、彼女の目には等しく危険な存在として映ったのだろう。
だが、もしそこに、自分を危険から救ってくれた、というフィルターが一枚加われば、話はまた違ってくるはずだ。
透はスマホを握りしめ、ポケットに入れた護身用の果物ナイフの重さを確かめた。
そして、一歩踏み出す。
「そこまでよ!」
お決まりのセリフだが、風は透の秀麗で颯爽としたポニーテールの先を、確かに揺らしていた。
酔って少し太り気味の男が振り返り、途端に嘲笑を浮かべる。「おっと!また別嬪さんのお出ましだ。しかも、こっちの方がずいぶん上玉じゃねえか!」
透のこの体は身長166センチで、出るとこは出ている。スタイルは当然、悪くない。
隅で縮こまり、自己防衛の体勢に入っている白いワンピースの少女をちらりと見やり、冷たく言い放った。「もう通報したから」
チュートリアルのシナリオ通りだ。
この後、この酔っ払いは慌てて逃げ出すはず。
そして四日後、シナリオ上の敵役として、再び彼女の前に現れるのだ。
だが、透の予想に反し、酔っぱらいの男は逃げるどころか、下卑た笑いを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。
「へっへっへ、通報ぉ? 上等じゃねえか、怖えなあ。俺様がどんな修羅場をくぐってきたと思ってんだ、ああん!?」
酒の勢いか、あるいは透がただの女だと侮ったのか。
男は両腕をまっすぐ前に突き出し、まるでゾンビのように突進してくる。透をそのまま押し倒すつもりらしい。
だが、男は気づいていなかった。少女の瞳が、徐々に氷のような冷たさを帯びていくのを。
男が間合いに入った瞬間、透は鋭く身を翻し、軽やかにその抱擁をかわす。
間髪入れず、しなやかな長い脚を突き出し、相手が前に突っ込む勢いを利用して――
必殺、膝蹴りからの肘打ち!
「ぐぼっ――!」
ゴキャッ、と。卵が潰れるような音と男の絶叫が、同時に響き渡った。
金的への一撃は、致命傷!
透はフンと鼻を鳴らし、さらに男を蹴り飛ばして地面に転がす。「素人だとでも思った?」
かつて、透は公園にいた退役軍人の爺さんから、護身術を専門的に学んでいたことがある。
もし爺さんの武勇伝がハッタリでなければ、若い頃は『龍王』という伝説の傭兵とかなんとか、呼ばれていたらしい。
男を打ちのめした透は、しかし、すぐには隅で呆然としている白いワンピースの少女に目を向けなかった。それどころか、地面で泣き喚く男を見下ろし、その表情をめまぐるしく変えている。
この男の背景設定は、とある半グレ組織のチンピラで、未成年を含む多くの学生にわいせつ行為を働き、いくつもの家庭を崩壊に追い込んだクズだ。
そして、この後に。
男は四日目に、仲間を引き連れて仕返しにやってくる。
一周目の時、綾辻依はこの男が連れてきた連中に怪我をさせられた。あの時、樋口透が金を貯めていて病院に行く選択肢を選べなければ、一周目はそこで終わっていたはずだ。
今、こいつを逃して、後々の面倒事を残すのか?
それくらいなら、いっそ……殺してしまえ!
病状が悪化し始めてからというもの、透は毎日が死との闘いだった。彼女は元より、他の人間より命に対してどこか達観していた。
ましてや、ここはゲームの中だ!
こいつらNPCは、所詮データの羅列に過ぎない。
そして自分には、何度でもやり直せる機会がある!
少女の眼光が鋭くなり、ポケットから護身用の果物ナイフを抜き放った。
反射する冷たい光に、男は完全に酔いが醒めた様子で、震えながら命乞いを始めた。
「ま、待ってくれ、何する気だ……もう二度としない、二度としないから、頼む、やめ――ぎゃあああッ!!!」
声は、そこで途切れた。
ナイフが男の心臓に沈み、鮮血が切っ先から這い出すように滲み出て、上着の布地に沿って、妖艶な血の薔薇がゆっくりと花開いていく。
人を殺すのは、想像していたほど怖いことじゃないらしい。
ましてや相手は、極悪非道の人間だ。
だが、透が我に返った時、あれほど遠くに隠れ、一度は自分を刺殺したことさえある少女が、いつの間にか目の前に駆け寄ってきていた。
透は慌てて立ち上がり、少女に声をかける。「大丈夫……って、おい、何してんだ!」
彼女が言い終わる前に、少女は男の傍らにしゃがみ込むと、同じように護身用だったはずの果物ナイフを、男の胸に力任せに突き立てた。
飛び散った血の雫が、少女の顔にまでかかる。
透は思考が停止した。こんな展開、全く想像していなかった。
彼女は慌てて少女を横に引き離す。「あんた、正気なの!?それとも仕返しのつもりか!こいつはもう死んでるんだぞ!」
少女は小さな顔を上げ、唇をきつく結び、瑞々しい頬を流れる一筋の血をそのままにしていた。
灰白色の乱れた前髪の下で、まだ涙の乾いていない瞳が、強い意志を宿して輝いている。
「あなた一人に、責任を負わせない」
彼女の声は、少し掠れていた。
だが、透にはその意味が分からない。「……何だって?」
「あな、たが……私を助けて、人を殺した。捕まっちゃう」
少女はずびっ、と鼻をすすり、腕で乱暴に頬の血を拭った。「これで、私たちは……共犯」