詩織は体を引きずるように起き上がり、浴室でシャワーを浴びてから部屋を出た。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴り響く。
「孝宏が帰ってきた?」
そう思いながら扉を開け、口を開いた。
「ねえ、あなた昨夜は――」
だが、目に映ったのは全く別の人物で、言葉が喉に詰まる。
立っていたのは若い女だった。
その横には整った顔立ちの男がいて、目を見開く。
「まさか……本当に孝宏兄さんが女を連れ込んでたなんて!」
石田霞は何も言わず、ただじっと詩織を見つめる。
その瞳には敵意と、女特有の嫉妬が滲んでいた。
詩織は背筋に冷たいものを感じた。
……まるで自分が浮気現場で取り押さえられたみたいじゃない。
「孝宏をお探し?彼はいませんけど」詩織は礼儀正しく告げる。
すかさず男――高橋雄大(たかはし ゆうだい)が笑みを浮かべた。
「いやいや、彼じゃなくて。噂を聞いたんだよ、昨日ついに孝宏が女を連れて帰ったって。それで、どんな相手か見に来ただけさ」
「だってさ、彼、ここ数年ずっと一人で、女を連れてきたことなんて一度もなかったんだぜ!」
「そ、そう……?」詩織は引きつった笑みを浮かべた。
(そんなわけない……私の知ってる孝宏は、女に困らないタイプだったはずなのに、確かに男女のことに欲求が旺盛なはずだ)
もしかして改心した?
霞は彼女をじっと見て、探るように問う。
「あなた、孝宏とどういう関係?」
「……関係なんてないわ」詩織は淡々と答える。
霞は信じられず、手を握りしめ、胸の内で怒りを抑えていた。
霞の視線は、彼女の首筋へと下りていく。――そこには赤い痕跡が幾つも残っていた。
霞は歯を食いしばって。「キス……されたの?」
詩織は少し間を置き、正直にうなずいた。
「うん」
「じゃあ……ベッドまで?」
詩織は再び正直に頷いた。「……うん」
その答えを聞いた瞬間、霞の顔に怒りが走り、詩織をわざと肩で突き飛ばした。
「っ!」バランスを崩した詩織は床に倒れ、
手首の皮が擦れて血が滲む。
「石田霞、やりすぎだろ!」雄大が慌てて彼女を助け起こす。
詩織の澄んだ目が瞬き、
(この女が……昨日何度も電話をかけてきた石田霞ね)詩織は心の中で呟いた。
あの時、彼女は男と深夜まで激しく愛し合っていたが、外からはまだうっすらと電話の音が聞こえていた。
霞はわざとらしくバッグをテーブルに叩きつける。
ソファに腰を下ろし、まるでこの家の主のようにふんぞり返った。
詩織は冷え切った顔でテーブルに水を注ぐ。
すると霞は当然のように手を差し出す。
「ありがとう。でも私、コーヒーのほうが好きなの。淹れてきてくれる?」
「それと、果物も盛り付けて持ってきて」
詩織は鼻で笑った。
メイド扱いか。藤井孝宏ですら、私をこんな扱いはしなかったのに。
この水は、自分のために用意したものだった。
無視され、石田霞の苛立ちは募る。
「無視するなんて!私が孝宏兄さんにとってどれだけ大事か、知らないでしょ!」
「あなたなんか、私と比べたら何もない!」
その言葉に、詩織は静かに顔を上げる。
冷ややかな瞳で彼女を見据えた。
霞は唇を曲げ、詩織が腹を立てる表情を見たくてたまらなかった。
でも詩織は淡々と、「彼にとってあなたがどれほど大事かは知らない。けど――」
「昨夜、彼はあなたの電話に出なかった。そして私と寝た」
その一言は、鋭い刃のように霞の心を抉った。
昨晩、一晩中電話したのに通じなかったことを思い出し、彼女の爪が掌に食い込み、顔色が真っ赤に変わる。
「っ……!ただ出られなかっただけよ!」
詩織は手首の傷を見下ろし、薄く笑む。
「ええ、だって私と寝てて忙しかったもの。疲れ果てて、あなたのことなんて忘れてた」
「もし何か詳しいことが知りたければ、彼に聞いてみたら?」
彼女はそう言って、立ち去ろうとした。
霞は前に出て、彼女の手首をぎゅっとつかんだ。「……きっと、あんたが誘惑したんでしょ!」
「放して」
詩織の声は低く冷たい。
揉み合いの最中、グラスが倒れ、热い水が霞の服にかかってしまう。
ちょうどその時――玄関のドアが開き、孝宏が戻ってきた。
彼は入ってくるなり、目の前の光景に少し驚いた。
「孝宏兄さん!」
霞は駆け寄り、腕にすがりつく。
目には涙をため、震える声で訴えた。
「彼女が……私に水をかけたの!」
詩織はため息をつき、首振った。
(やっぱり、そうなるわけね……)
孝宏は濡れた彼女の服に視線を落とし、眉をひそめた。
「孝宏兄さん、見て……腕が赤くなってる。私、すごく痛いの……あなた、助けて」
霞は必死に涙ながら訴える。
詩織の頭がずきりと痛んだ。
(前世で何の悪いことでもしたのか?どうしてこんなに絡まれるのよ……)
そして彼女は一歩前へ。
涙ぐんだ瞳で彼を見上げ、震える声を絞り出した。「あなた...」
泣き声を帯びた甘い呼びかけは、耳に届くと胸の奥を掴まれるように切ない。
まるで人を惑わせる妖精そのものだった。
それを見て、霞は思わず固まる。
一方で孝宏の心臓が一拍、強く跳ねた。
彼女は寝ぼけているのか?
昨夜、どれだけ彼がなだめすかし、誘っても、彼女はそう呼ぶことを拒んでいた。
とても頑固で、素直じゃなかった。
次の瞬間、詩織は手を伸ばし、軽く彼のシャツの袖を引っ張った。
傍目には、彼女が甘えているように見えた。
「どうした?」
孝宏は喉を鳴らし、思わず声を和らげる。
詩織は手のひらを彼の前に差し出した。
小さな声で、涙をにじませながら。
「さっき先に押したのはあの人。……ほら、手が傷だらけで痛いの。吹いて」
孝宏の眉がぎゅっと寄る。
霞は焦って口を開いた。
「孝宏、違うの、誤解よ! 私は――」
だが詩織は遮り、そのまま男の胸へ飛び込む。
柔らかな温もりに抱きすくめられ、一瞬で孝宏の息が詰まる。
これでは抗えない。
彼女は彼の胸元に顔をすり寄せ、か細い声で甘える。
「あなた、今日ちゃんと彼女に謝らせてくれなきゃ、私……泣き叫んじゃうからね」
そう言いかけたところで、ポケットの中で電話が鳴った。
詩織は慌てて取り出し、通話を繋ぐ。
「秦野さん、もう何時だと思ってるんだ!まだ来ないのか!」
その声に体がびくりと震える。すぐに思い出した。「行く!20分で着くから!」
慌ただしく電話を切り、バッグを取りに部屋へ走る。
──しまった。この女に気を取られて、本来の用事を忘れるところだった!
急いでバッグを抱え、部屋を出ようとした瞬間。
孝宏が後を追い、腰を掴んで押しとどめる。眉間に皺を寄せて低く問う。
「どこへ行く」
彼の耳には、さっき電話の相手が男の声だったことが焼きついている。
詩織は一瞬だけ視線を交わし、急いで言葉を返す。
「あなたには関係ない」
次の瞬間、孝宏は片腕で彼女を抱き上げ、そのままベッドへ押し倒す。
「関係なくなんてあるか。言え、誰に会いに行くつもりだ」
さっきまであんなに甘えて抱きついてきたというのに。
電話一本で、どうしてこんなにも態度が変わるんだ――。