第7話:夜の女王との契約
響が病室に入ってきた時、彩花は窓際のベッドで静かに座っていた。
「治療を拒否してるって聞いたぞ」
響の声は苛立ちを隠していない。彩花の治療拒否を、自分への執着心の表れだと解釈していた。
「おじいさまの容体は……」
彩花が小さく尋ねた。祖父だけが、この世で唯一自分を愛してくれた人だった。
「お前の脚が動かないからって許されると思うなよ」
響の言葉が彩花の心を突き刺した。祖父が倒れた責任まで、自分に押し付けられる。
彩花は何も答えなかった。もう何を言っても無駄だと悟っていた。
響が去った後、使用人が彩花の私物を運び出していく。その中に、小さな木彫りがあった。
響の誕生日のために、彩花が一ヶ月かけて彫った小さな鳥。
――あの頃のことだ。
彩花の記憶が、過去へと遡っていく。
神楽坂家に引き取られた八歳の彩花は、いつも一人だった。両親を失った悲しみと、新しい環境への不安で、毎晩泣いていた。
そんな時、響が声をかけてくれた。
「泣いてるの?」
十二歳の響は、彩花にとって頼れる兄のような存在だった。
「お父さんとお母さんに会いたい」
彩花が涙を流すと、響は優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫。俺がいるから」
その言葉が、彩花の心の支えになった。響がいれば、どんな辛いことも乗り越えられる。そう信じていた。
十六歳の響の誕生日パーティー。彩花は手作りの木彫りを贈ろうと、胸を躍らせていた。
「響、お誕生日おめでとう」
彩花が木彫りを差し出すと、響は微笑んで受け取ってくれた。
「ありがとう、彩花」
その瞬間が、彩花にとって最も幸せな時間だった。
しかし――
「皆さん、紹介します。僕の大切な妹、咎音です」
響が咎音の手を取り、親しげに紹介した瞬間、彩花の世界が崩れ始めた。
咎音は美しく、才能に溢れ、誰からも愛される存在だった。彩花とは正反対の、完璧な少女。
「彩花姉、素敵な贈り物ですね」
咎音は微笑みながら木彫りを見つめた。しかしその瞬間、彩花は気づいてしまった。
響の視線が、もう自分ではなく咎音に向けられていることに。
「狂犬みたいでみっともない」
口論の末、響が彩花に放った言葉。それが二人の関係の終わりを告げていた。
雪山で死を覚悟した時、彼女は現れた。
月光のように美しく、夜のように深い瞳を持つ女性。
「夜の女王よ」
その存在は彩花の前に立ち、優雅に微笑んだ。
「あなたの一番大切なものを私にちょうだい。そうすれば、生きられるわよ」
彩花は震える声で尋ねた。
「一番大切なもの?」
「あなたの愛と記憶よ。響への想いを全て私に渡しなさい」
女王の声は甘く、誘惑的だった。
「そうすれば、新しい人生をあげる。六日後、ビルから飛び降りなさい。それがあなたの再生の儀式よ」
彩花は頷いた。もう失うものなど何もなかった。
――そして今日が、その約束の日。
「彩花」
響が最後の見舞いに訪れた。
「反省したら迎えに行く」
一方的な宣言だった。しかし彩花は、いつもと違って素直に頷いた。
「はい」
響は違和感を覚えた。いつもの彩花なら、もっと感情的に反応するはずなのに。
「響兄」
咎音が病室に現れ、響の腕に甘えるように寄り添った。
「彩花姉、元気になったみたいですね」
彩花は静かに微笑んだ。もう何も感じなかった。
「先に行ってて。着替えたらすぐ行く」
彩花の言葉に、響は頷いた。しかし胸の奥で、説明のつかない不安が渦巻いていた。
病室を出た響は、廊下で立ち止まった。
「どうしたの?」
咎音が尋ねる。
「いや……何でもない」
しかし、次の瞬間、彼の視界の端に、五階の窓辺に座る彩花の姿が映った。
「まさか……!」
響は目を見開き、反射的に駆け出そうとした。だが遅すぎた。
次の瞬間、その細い身体が、地面に叩きつけられた。血の花が咲いた。
「彩花!」