どうせ、三年間も結婚していながら、一度もやったことがなかった。「つまり、あの人は本当に私に興味がないんだろう」美咲はそう思っていた。
だから、昨夜も篠原青斗はわざわざ自分を呼びつけ、ただ辱めるためだけだったのだ。触れる気なんて最初からなかった。
そう考えれば、あの言い訳も嘘にはならない。
紬はちらりと彼女を一瞥し、何も言わなかった。
美咲の言葉は十分筋が通っている。
今の彼女が金に困っているのは事実で、一千万円をみすみす逃す理由なんてあるはずがない。なら、問題は篠原青斗のほうにあった――そう考えるのが自然だった。
沈黙が答えだと悟った美咲は、ほっと胸をなで下ろす。ますます従順な態度を見せ、声を和らげる。「もう用がないなら……お酒を運んできますね」
「待ちなさい」
足を止め、首を傾げる。「花子さん、まだ何か?」
紬は椅子に身を預け、じっと彼女を見つめた。
美咲は、美しい。
桐城のような美女の多い街でも、名前を挙げられるほどの容姿。華やかで艶やかな羽田澄(はねだすみ)とは違うけれど、彼女には独特の魅力があった。
男女を問わず好かれる顔。
大きな黒い瞳はアーモンドのように丸く、
こちらを見上げるときは従順そのもの。
さらに笑えば甘く可憐で、男が放っておけなくなる。
だからこそ、彼女が「暗夜」に入ったとき、名指しで呼びたがる客は山ほどいた。だが紬は全て断らせた。
初夜を高値で売るために。
けれど昨夜の失敗で、少し冷静になった。
どんなに綺麗でも、初夜が2000万円なんてありえない。
結局、今の美咲はただの「暗夜」のホステス。過去の身分がどうあれ、一人の夜にそこまでの値打ちはない。
煙を吐きながら、紬は静かに問いかけた。「そんなにお金が要るの?」
美咲は素直に頷いた。「はい」
「昨日、小林社長から電話があってね。六百万円であんたを指名したいって。……どうする?」
笑顔を崩さず、ますます従順に見せかける。けれど黒い瞳の奥には、何かが沈み込んでいく。「ママがいいと思うなら……美咲も、それでいいです」
もう、誇りだの矜持だのを言っている場合じゃない。
篠原青斗に泥へと叩き落とされた彼女は、そこから立ち上がる気もなければ、立ち上がる力も残っていない。
――ただ、生き延びるだけ。
死ぬわけにはいかない。自分が死ねば、背後に残された家族も道連れになる。
だから、生きる。稼ぐ。京極健太が目を覚ますその日まで。
紬は頷いた。「わかった。じゃあ、小林社長に連絡しておくわ」
あの脂ぎった男も、これで念願が叶うだろう。
紬は携帯を取り出し、発信しようとした。しかし画面が突然光り、表示された番号を見て顔色が変わる。すぐに煙草をもみ消し、立ち上がった。「……社長、私です。花子紬です」
声が一変し、恭しい態度に。
そして美咲に目配せを送る。――外に出ろ、と。
「暗夜」のオーナーは、桐城で最も謎めいた存在。かつて首富の令嬢だった美咲ですら、その正体も知らなかった。