「私は悲しくなんかないわ、やっと独り身に戻ったんだから、お祝いするべきよね。これからは人生を楽しむわ、ハハハ……すごく嬉しい……」と斎藤詩織は青ざめた笑みを浮かべた。
山口奈々は詩織の背中を優しく叩いた。
無理に笑っている気持ちがどれほど辛いものか、彼女にはわかっていた。
「お酒だお酒、今夜は飲まずには帰らないわよ……」詩織は奈々の手を引いて座らせ、赤ワインを次から次へと胃袋に流し込んだ。
詩織が予約したVIP個室なら、酔っ払っても安全は保証されていた。
彼女は意地でも自分を酔わせるつもりで、全く遠慮なく飲んでいた。
酒を飲みながら歌も歌い、二十二年間まっとうに生きてきて、こんなにハイになったことはなかった。
赤ワイン三本を空け、詩織も奈々も酔いつぶれ、二人はソファーに倒れこんで意味不明なことをぼそぼそと話していた。
給仕係が個室に酒を運んでくると、詩織が「旦那様、旦那様……」と叫んでいるのが聞こえた。
涙が詩織の目尻から流れ落ち、飲み干したお酒がすべて涙となって流れ出ていた。
酔っていなければ、彼女は自分が泣くことを許さなかっただろう。
給仕係は詩織が旦那に電話をかけて欲しいという意味だと思い、彼女のスマホを手に取り、「旦那様」の連絡先を見つけて電話をかけた。
……
小林颯真はオフィスで残業中だった。江口昇が颯真の仕事用携帯を持って彼のオフィスに入ってきた。
詩織は颯真の妻であるにもかかわらず、彼の私用携帯に電話をかける資格はなかった。
そして仕事用携帯の連絡は、必ず江口が取り次がなければならなかった。
普段なら江口が自分で対応したところだが、今日は特別な状況だと感じ、彼は上司に報告する必要があると思った。
「社長、奥様からのお電話です」
案の定、颯真は眉を上げ、手を伸ばした。
こんな状況は以前になかったことだ。
電話に出ると、詩織の声ではなかった。「もしもし、奥様が当バーで酔っ払っておられます。お迎えにいらっしゃっていただけますか」
颯真は眉をしかめた。「どこだ?」
「グローバルタイム・バー、VIP個室888号室です」
「わかった」
電話を切ると、颯真は少し黙った後、立ち上がった。「グローバルタイムへ行こう」
「はい、社長!」
注目を集めないよう、颯真は江口だけを連れて、控えめにバーへ向かった。
バーへ向かう車中、江口は時々颯真の様子を窺っていた。社長はいつも通りの表情で、何の変化も見せなかった。
我慢できずに江口は口を開いた。「社長、奥様はさぞかし辛いのでしょう。そうでなければお酒に酔うことなどないはずです」
颯真は淡々と答えた。「喜んでいるのかもしれないな」
悲しい時だけ酔っ払うとは限らない、嬉しい時だって酔っ払うことはある。
詩織が自分より先に離婚を考えていたと知り、颯真の心にはほんの少しの不快感があった。
彼の考えでは、自分はいつでも離婚を切り出せるが、詩織にその権利はない。
彼女が離婚を切り出すことは、彼の威厳への挑戦であり、侮辱でもあった。
「明らかに憂さ晴らしの酒じゃないですか」と江口は小声でつぶやいた。
バーに着き、個室に向かう途中、数人のチンピラが酔った女性に絡んでいるのが見えた。
女性は壁にもたれかかり、甘えるような声で「旦那様……どこにいるの……」と呼んでいた。
チンピラたちが大笑いした。「お嬢さん、俺たちが旦那だよ。今夜は最高の夜にしてやるぜ、ハハハ!」
颯真は眉をひそめた。こんな場所で酒を飲むとは、命知らずもいいところだ。
「あなたたちは私の旦那様じゃない……私の旦那様は……小林颯真……」
その言葉を聞き、颯真は足を止め、振り向いて見た。
詩織の乱れた長い髪が顔を隠していたが、よく見れば彼女だとわかった。