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第1話:替え玉の終わり
午後6時。詩月(しづき)は決められた通りにキッチンで夕食の準備を終え、浴室の湯加減を確認した。いつものように零(れい)の帰りを待つ。時計の針が8時を回っても、玄関のドアが開く音は聞こえない。
携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「お疲れさま。氷条(ひょうじょう)怜華(れいか)よ」
電話の向こうから聞こえる声に、詩月の心臓が跳ねた。
「来週の水曜日に私が戻るから、消える準備をしておきなさい。契約通りにね」
「はい、承知いたしました」
電話が切れた瞬間、詩月の唇に小さな笑みが浮かんだ。ついに、この日が来た。
――あの日のことだ。
詩月は自室に向かい、引き出しの奥から一枚の契約書を取り出した。3年前、お婆さんが倒れた時のことが蘇る。
「手術費は1億6千万円です」
医師の言葉に絶望していた詩月の前に現れたのが、氷条怜華という見知らぬ女性だった。
「あなた、私に似てるのね」
怜華は詩月を値踏みするような目で見つめた。
「海外留学中に恋人が心変わりしないよう、私の替え玉になってもらいたいの。報酬は1億6千万円。期間は3年間」
祖母を救いたい一心で、詩月は震える手で契約書にサインした。それが、地獄の始まりだった。
玄関のドアが開く音がした。零が帰宅したのだ。
「おかえりなさいませ」
詩月は慌てて契約書を隠そうとしたが、零の鋭い視線がそれを捉えた。
「何を隠している?」
「何でもありません」
詩月は零のネクタイを解きながら言った。
「お風呂の準備ができております」
「飯はもう食べた。先に風呂にする」
零は詩月の気遣いなど意に介さず、そっけなく答えた。
寝室で、詩月は枕元の録音ペンを起動した。怜華から言われていた最後の指示を思い出す。
「零が愛しているのは私だという証拠を渡しなさい」
恐怖と決意が入り混じる中、詩月は意を決して口を開いた。
「少しでも私のことを愛したことはありますか?」
零の答えは予想通りだった。
「ただの替え玉が、俺の愛を得たいというのか?俺が愛するのは、怜華一人のみだ」
詩月は目をそらして「分かってます」と答えようとした。しかし、言葉が出る前に零に冷たく遮られた。
「ベッドの上では声を出すな。あんたの声は彼女に少しも似ていない」
零が眠った後、詩月は録音データを怜華に送信した。すぐに返信が届く。
「よくやったわ。来週の水曜日に金を持って臨鏡市から消えて」
詩月の顔に安堵の笑みが浮かんだ。身体が軽くなったように感じる。
あと一週間。
ようやく手に入る新しい人生への希望を胸に、詩月は静かに目を閉じた。しかし、彼女はまだ知らない。この最後の一週間に、運命を変える出来事が待ち受けていることを――