教室にはまだ先生が来ておらず、俊介は濡れた制服と鞄を抱えて席についた。冷たい空気を纏ったまま腰を下ろすと、隣の席の西村が本を手探りしながら、俊介の気配に気づいて振り向いた。
「来たんだ、俊介? 遅刻、ばれなかった?」
俊介は大きく息を吐き、小声で答える。
「もう少しで、ね。君のお兄さんたちに会って、一緒に入ったんだ。」
「兄貴? あいつ、何してたの?」
西村は空っぽのような大きな瞳を瞬かせて問い返す。
「ゴミ出し。」俊介は言った。
西村はすぐに察して、ふっと笑いながら言う。
「弦生と航平? それに仁野でしょ?」
俊介は頷き、彼が見えないことを思い出して、声でもう一度「うん」と答えた。
「いい考えだね。これから遅れそうな時は、あらかじめ僕に言って。あいつらにゴミ出しさせてあげるよ。」
西村は笑いながら続けた。「まあ、こんなこと思いつくのは仁野くらいだろうけど。」
俊介にはそんな度胸はない。弦生を除けば、残りの二人は彼にとって“借金取り”のような存在だからだ。
高校一年の頃、食堂で俊介は足を滑らせ、持っていた食事の盆を二人の上にぶちまけてしまった。その光景は、対人恐怖気味の俊介にとって悪夢そのものだった。今でも思い出すと呼吸が苦しくなり、まともに考えることさえできない。
当時、仁野は「八千円で弁償しろ」と言った。俊介には到底払える額ではなかった。
結局、その金を彼らは受け取らなかった。仁野が脅かしただけだったのだ。けれど俊介は長いこと現金を封筒に入れて持ち歩き、何度も彼らの教室まで足を運んだ。金を渡せないままという事実は、むしろ心を軽くするどころか、常に胸に重くのしかかっていた。学校の“お坊ちゃん”たちに逆らうことなどできないし、関わりたくもなかった。
その学期、俊介はずっと不安に苛まれ、彼らを見かけるたびに心臓が跳ね上がった。金を渡すべきか、遠ざかるべきか――その間で苦しみ続けたのだ。
今は西村と同じ机を並べ、彼らの姿を日常的に目にするようになった分、最初ほどの恐怖はない。けれど、やはり彼らと話す勇気はなかなか持てなかった。
「俊介、僕の顔になんか毛がついてるみたいなんだ。髪かな? 痒いけど、手じゃ取れなくて。」
西村は俊介の手首に触れ、顔を近づける。
俊介は彼の頭を押さえて窓の方に向け、光に透かすようにして覗き込んだ。
「細い毛だ。帽子についてたやつだな。」
指で取ろうと伸ばしかけて、今朝転んで泥にまみれ、ゴミ箱から鞄を拾った手を思い出す。俊介は代わりに机からペンを取り、キャップの先でそっと毛を取り除いた。
西村の視力は弱く、半盲だ。分班のときに同じ席になったのは、俊介が自ら願い出たからだった。
西村は何度も彼を助けてくれた。温和で、人に優しい。
半盲で普通校に通うことは難しい。黒板も本も見えない。けれど西村の家族は彼を特別な場所に閉じ込めたくないと、ずっと普通の学校に通わせ続けてきた。
この“机を並べる二人”の関係は良好だった。俊介は社交が苦手だが、西村の前では不思議とよく話せた。休み時間はもちろん、授業中も時折囁き合う。先生も彼らを咎めることはなかった。俊介はクラス一の秀才、西村は皆から愛される存在。そんな二人を叱るには惜しかったのだ。
「俊介、朝ごはん食べた?」西村が尋ねる。
「いや、弟を送ってて時間なくて。」俊介は答えた。
すると西村は机の中をごそごそ探り、包みを取り出して差し出した。
「やっぱりね。今朝、君が食べられない気がして、持ってきたんだ。」
俊介は笑い、遠慮せずに受け取った。
「ありがとな、同桌。」
先生の来ない朝の自習時間、俊介は地図を暗記しながら、大福をかじった。袋越しに持った手にまだ温もりが残っている。
西村も外では口数が少ない。内気ではないが、人の多い場所では半盲ゆえに不安を抱えるのだ。俊介はいつも彼を窓側に座らせ、体育やトイレにも連れて行った。この長机は二人にとっての“防護壁”であり、その内側は安心できる世界だった。
彼らは互いの秘密をたくさん知っていた。