あの年の冬、航平が実家に帰省した。
俊介もすでに冬休みに入っていたが、彼は寮に残ることにして、叔母の家には戻らなかった。
午前中は家庭教師のバイトが二つ、午後は時々、短期の仕事が入る。
そんな日々を静かに過ごしていた。
その日の午後、俊介が机に向かってノートに書き込んでいると、スマホが震えた。
寮は冬休みでほとんど人がいない。
冷たい空気の中、毛布を肩にかけ、湯たんぽを抱きながら、彼はようやくスマホを手に取った。
航平:冬休み、もう始まってる?
俊介:うん、始まってる。
航平:じゃあ、今度ご飯でも行かない?
画面を見つめながら、俊介の胸が小さく跳ねた。
高校を卒業してから、一度も会っていない。
メッセージをもらうのは嬉しいけれど、「会う」となると、急に現実味が増して、緊張した。
俊介:……いいよ。
返事を送るまでに、何度も文面を消しては打ち直した。
約束の日。待ち合わせは午後三時だったが、航平からの電話は二時半にかかってきた。
「もう着いた。お前の寮の下にいる。」
俊介は思わず時間を見て、慌てて立ち上がる。
「えっ、早くない!? 今すぐ行く!」
「別に急がなくていいよ。近くで用事があっただけだから。」
電話越しの声は相変わらず落ち着いていて、それが余計に心臓をドキドキさせた。
階段を駆け下りるたびに、心臓の鼓動が足音と重なって響く。
外に出ると、航平が建物の前で背中を向けて立っていた。
彼が振り向き、少し目を細めて笑う。
「お前……背、伸びたな。」
俊介は息を切らしながら、照れくさそうに答えた。
「ちょっとだけ、ね。」
「前はもっと小さかった気がする。いつも端っこで縮こまってたし。」
その言葉に俊介は心の中で苦笑した。――あれは、あなたが怖かったからだよ。お金のこともあったし。
昼食には少し早い時間だったので、航平が言った。
「この近くに銀行ある? 登録の電話番号、変更したくて。」
俊介が案内しながら歩くと、航平は昔よりもずっと柔らかく話しかけてくる。
印象が変わった、と俊介は思った。前よりもずっと話しやすい。
「弦生とは、今もよく会ってるの?」
「ん? ああ、たまにね。」
「やっぱり、帰ってこないんだ?」
「うん。忙しいらしい。」
俊介は少し見上げるようにして航平を見た。
横顔は、高校の頃とほとんど変わっていない。
整った顎のラインも、くっきりした目元も、記憶のままだ。
「……どうした?」
航平が俊介の視線に気づき、首を傾げる。
俊介は慌てて首を振った。
「なんでもない。」
――変わっていないのは、たぶん俺のほうだ。
その笑顔ひとつで、こんなにも心が揺れるなんて。
冬の外から室内に入ると、俊介の眼鏡はいつも曇ってしまう。
その日も例外ではなかった。
真っ白になったレンズの向こうは何も見えず、ぼんやりとしたまま歩き出した彼は――真正面から航平にぶつかった。
「おいおい、前見えてないだろ」
航平が笑いながら、彼の腕を軽くつかんで横に引き寄せる。
「全然見えないんじゃない?」
俊介は眼鏡を外して、手でぶんぶん振った。
その瞬間、視界はふわりと霞む。
裸眼では世界の輪郭が溶け出してしまうようで、思わず目を細めた。
「……眼鏡、曇っちゃって。」
そう呟く声が少し照れていた。
番号を呼ばれたあと、航平は俊介の腕を持ってベンチへと導いた。
「視力、いくつだっけ?」
「眼鏡が六百度くらい。たぶんもう少し悪くなってると思う。」
俊介は隣に腰を下ろして笑った。
「前に西村と出かけた時、電車乗る前に誰かにぶつかって、眼鏡が線路の外に落ちちゃってさ。二人で一時間も探したんだ。
それ以来、西村が“予備持ってこないなら一緒に出かけない”って言うんだよ。」
「はは、文句言うタイプだな。ずっと横で小言言ってたんじゃない?」
「そんなことないよ。……今は、あんまり喋らなくなった。」
俊介はふと呟いた。
西村――西村の変化を思い出しながら、「静かになった」と小さく笑う。
その夜、俊介はなかなか眠れなかった。
特別に何かを考えていたわけではない。
食事の後もいつも通り勉強をして、ベッドに入った。
ただ、心のどこかが少しだけざわついていた。
――航平といると、どうしてこんなに落ち着くんだろう。
秘密にしている気持ちがあるのに、彼の前では不思議と緊張しない。
心地よい人、そう言えば簡単だけど、それだけじゃない気がした。
時計を見ると、夜中の一時半。
まるで目が冴えている。
俊介はベッドから起き上がり、スウェット姿のままスリッパを履いて洗面所へ向かった。
戻っても眠気は来ず、そのまま一階の共有スペースに降り、イヤホンを耳に差し込む。
英語のスピーチ音声を再生して、なんとなく時間を潰した。
けれど、ふとした拍子に昼間のことがよみがえる。
曇った眼鏡越しに見えた航平の笑顔。
手首を引かれたときの、あの温かさ。
思い出すたびに、口元が緩んでしまう。
――眠れない夜も、悪くないな。
結局、英語を聞きながら四十分ほど過ごし、朝方ようやくまぶたが重くなった。