「帰り道が見つからなくて、ここの中庭の景色が良かったから、少し立ち止まってただけ」
愛子は初の腕にかけられたコートを指さした。「携帯がその中に入ってるの」
初は一瞬固まった。
彼は愛子に十数回電話をかけたが、彼女が出るかどうかはどうでもよかった。コートも出かける時にたまたま持って来ただけだった。
「じゃあ早く着なよ」
初はコートを広げて愛子の肩にかけ、彼女の手を軽く握った。顔には心配の色が浮かんでいる。「これからどこに行くにも携帯を持っていてくれ。見つからないと心配になるんだ、わかる?」
愛子はうなずいたが、それ以上は何も言わなかった。
詩織は入口に立ち、色っぽい目で二人を見ていた。彼女の顔は赤く、愛されたあとの満足げな表情で、わざと愛子の表情をちらりと見た。
「お酒飲んじゃったから、一人だし代行運転も中々連絡取れないから、初さん、送ってもらえないかな?」
「そうだな、どうせ同じ方向だし、詩織のこと頼むよ」文昭たちも入口に立っていた。彼の車はすでに人でいっぱいで、ドアに寄りかかりながら振り返った。
「初さんは詩織のこと、ちゃんと面倒見てあげてね。来週は二次予選だし、これからは古典舞踊の大家になるんだから、俺たちもみんな、その恩恵に預かってやっと光り輝くぜ」
大和の彼女はまず愛子に挨拶をし、それから親しげに詩織の手を取り、二言三言お世辞を言いながら、さりげなく詩織を初の車の方へ押した。
初はまったく断る様子を見せなかった。
むしろ進んでドアを開けた。
助手席のドアを。
詩織は身をかがめて座った。
愛子は冷たい目線でそれを見ていた。
自分が愚かだった。
どうやら周りの人間全員が、とっくに知っていたらしい。あの二人は、私の目を盗んでもう結ばれているってことを。もしかして、彼らから見たら、私は哀れな女なんだろうか?
「愛子、こっちだよ」
初は愛子の腰に腕を回し、一緒に後部座席に座った。運転席には急遽見つけた代行運転手が座っていた。
それを見た詩織の表情が曇り、シートベルトを握る手に力が入った。
「果実酒を少し飲んだみたいだけど、気分悪い?」
愛子が振り返ろうとすると、初は彼女を窓側に押し、後ろから彼女の額をマッサージした。「気分が悪いなら俺に寄りかかっていいよ。家に帰ったら二日酔いに効くスープを作ってあげる」
「うん」
愛子は後ろに体を傾け、初の肩の窪みに身を寄せた。
彼は身を乗り出して窓のボタンを押し、少し窓を下げて、彼女が冷たい風に当たって楽になるようにした。
数台の車がゆっくりと道路に合流し、すれ違う時、一台の黒いセダンが初の車のすぐ横を通り過ぎた。
運転席の窓が開き、袖をまくり上げた男の手にはタバコが挟まれ、手首には銀色の腕時計が冷たく光り、その光がまさに愛子の目に刺さった。
和真だった!
彼は片手でハンドルを握り、明滅する光の下でその冷たい目が彼女を見つめていた。
「さっきはどうしたんだ?タバコを一本吸うだけなのに、そんなに時間かかるか?」拓也が隣に座り、携帯でメッセージを返しながら何気なく尋ねた。
和真は視線を戻し、窓枠に肘をついてタバコを吸いやすくようにした。
「タバコが吸いたくなっただけだ」
「亮のやつは変わってるよな。タバコの匂いが駄目で、服に染みつくのも嫌がる。今日もちょっと食べただけですぐ病院に呼び戻されて緊急手術だってさ。もう呼ばない方がいいかもな」
和真は皮肉めいた笑みを浮かべて横目で拓也を見た。「その話、本人の前で言ってみろよ」
拓也は鼻で笑った。「あいつ、メスを俺に向けるほど度胸あるとでも?」
前方の信号が赤に変わり、和真はタバコを吸い終えたが、指の間に挟んだまま捨てずに、冷たい目で初の車が徐々に走り去るのを見つめた。
ハンドルを握る手に一瞬力が入り、青筋が浮き出た。
「小野物産の周年記念パーティーのテーマは何だ?」