愛美は、相手のことをずっと「天然で素直そうな子」だと思っていた。だが手にしたこの薬を見て、さっきの「三人だけの秘密」という言葉を思い出し、ふっと口元がほころぶ。「和久が、これを私に渡せって?」
奈緒はこくりとうなずき、いかにも無垢そうな表情で言う。「和久お兄さんがね、女同士のほうが話しやすいって。彼はあなたに妊娠してほしくないの。実はね、私にも分かるのよ。お姉さんも、今は全然妊娠したくないって。それに、これから出かけるのって、緊急避妊薬を買いに行くんでしょう?」
愛美は薬の箱を数秒見つめ、それをそのまま窓の外へ放り投げた。鼻先のサングラスを指で押し上げ、さらりと言い放つ。「冗談言わないでよ。お婆さまに、可愛い曾孫を産んであげるつもりなんだから!」
言い終えるや、相手の反応を待たずアクセルを踏み、駐車場を出る。奈緒はぽかんとしたまま取り残された。
奈緒は身をかがめて落ちた箱を拾い、数歩先のゴミ箱に放り込むと、そのまま立ち去った。
ちょうどその一部始終を、通りかかった中村お婆さんに付き従う側付きの女中が、はっきりと目にしていた。
愛美の目的は、今や明確だ。奈緒が何を仕掛けようと、あるいは和久が彼女に何をさせようと、自分の行動と計画が揺らぐことはない。
そんなことはどうでもいい。
親友は、おそらく和久の手によって命を落とし、いまも遺体すら見つかっていない。
最優先は、和久がこれまで八人の婚約者を手にかけたという証拠を見つけること。
その八人目――彼女の親友は、婚約式の夜に忽然と姿を消し、今日に至るまで行方不明のままだ。
警察はすでに死亡と判断した。しかし、中村家はいつものとおり、誰からも咎められない。
というより、彼らに楯突く勇気のある者など、誰一人としていないのだ。
愛美は車を停め、近くのドラッグストアで無事に緊急避妊薬を手に入れると、ポケットにしまった。それから向かいのコンビニで水を買うつもりだった。
歩道を通りかかったとき。
黒いポルシェが、キーッという甲高い音を立てて、足元のすぐ前で止まった。
窓が静かに下がり、運転席のスーツ姿の男が顔を出した。表情はほとんどなく、機械のように言った。「橋本さん、こんにちは。和久様が、お車にお乗りいただくようにとのことです」
紹介されるまでもなく、愛美はすぐに助手席の男に気づいた。
ガラス越しにも、彼から放たれる冷たい気配が肌を刺した。
後部座席のドアが開き、愛美は身をかがめて座り、視線を助手席に向けた。
和久は青のスーツに白いネクタイを締め、短く整った黒髪が光を受けて艶やかに輝いていた。端正で精悍な顔立ちの奥には氷のように冷たい心が潜んでいる。
その一言は運転席の助手に向けられたもので、助手は恭しくうなずいた。
案の定、避妊薬の箱が後部座席へと投げ込まれた。
愛美の予想どおり、彼はその薬を数秒間見つめた。奈緒ができなかったことを、今度は自分でやるつもりなのか?
彼らの動きの早さには、思わず感心するほどだった。
愛美が何か言う間もなく、助手が矢継ぎ早に言葉を重ねた。その声には一切の余地がなかった。「橋本さん、私たちはみんな分かっています。あなたと和久様の結婚は取引です。あなたは1億円のため、和久様は大奥様に逆らえなかった。この薬を今すぐ飲んでください。絶対に、子供ができてはいけないんです!」
愛美は真相を解明したかったが、今は身を守ることも必要だった。和久が次に自分に何をするか分からない。
いまは虎の尾を踏むような真似はできない。そもそも、彼女自身もこの薬を飲むつもりだった。
助手は言った。「後部座席に水があります。今すぐ飲んでください」
「……分かったわ」水を買いに行く手間が省けた。
愛美は差し出されたペットボトルを手に取り、キャップを開けた。薬の包みを破り、無言で一粒、掌に転がした。