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Kapitel 2: 2話 最初の死亡フラグ

 人間不信のオレが、大嫌いな「他人を蹴落とし、いずれ惨めに殺される運命」の悪役貴族。

 これ以上の地獄が、果たして他にあるだろうか。

 あまりの理不尽さに、思考が完全に停止する。頭が真っ白になるというのは、こういうことを言うのだろう。

「――カイゼル様、いかがなさいましたか?」

 冷徹な声が、呆然とするオレを現実に引き戻した。

 目の前には、銀縁のモノクルをかけた執事――確か名はセバスだったはず――が、訝しげな表情で俺の顔を覗き込んでいる。

 そうだ、まだ状況は終わっていなかった。

 床には陶器の破片が散らばり、メイドの少女が震えながらひれ伏している。

 この状況、悪役貴族カイゼルならどう動く? 答えは一つ。激昂し、メイドを罵倒し、あるいは暴力を――。

「も、申し訳ございません! この通りでございます!」

 執事は深く頭を下げ、再び謝罪の言葉を口にした。

 その慇懃な態度に、オレの身体に染み付いた前世の記憶が、最悪の形で反応する。

「あ、いえ……大丈夫ですので、お気になさらず……」

 ――終わった。

 そう口にした瞬間、場の空気が、比喩ではなく本当に凍りついた。

 執事はピシリと石のように固まり、ひれ伏していたメイドも、ビクッと肩を揺らして恐る恐る顔を上げる。二人の視線が、まるで未知の生物を見るかのようにオレに突き刺さった。

 しまった……!

 今のは完全にサラリーマン時代の営業スマイル付き口調だった……!

 カイゼルはこんな言葉遣いをしない。こんな腰の低い態度など、天地がひっくり返っても取るはずがないのだ。

 不審がられる。なんだこいつは、と怪しまれる。最悪の場合、悪魔にでも取り憑かれたと思われて、問答無用で殺されるなんてことも。

 どうする。どうすればいい。

 ゲームの記憶を必死に手繰り寄せる。そうだ、本来のカイゼルなら、ここでこう言うはずだ。

『――ふざけるな、雑種が。我が寛大さに感謝するがいい。今すぐここから失せろ。次にその汚い顔を見たら、ただでは済まさんぞ』

 そして、メイドを蹴り飛ばし、執事を睨めつける。それが正解ムーブ。

 だが……!

 できるか、そんなことォ!!

 心の中で、全力で叫んだ。

 目の前で震えているのは、オレと歳がそう変わらないか弱い少女だ。前世で培われた倫理観と常識が、全力で暴力を拒絶する。

 しかし、オレが黙り込んでいる間にも、執事の疑惑は深まっていく。

「……カイゼル様? もしや、どこかお加減でも?」

 モノクルの奥の瞳が、鋭くオレを射抜く。まずい、このままでは本当にまずい。

 こうなったらやるしかない!

 暴力は無理だ。罵倒も心が痛む。だが、何もしなければ疑われる。

 ならば、その中間。良心がギリギリ傷つかず、それでいてカイゼルらしい傲慢さを最低限演出できる、絶妙なラインを――!

「……やかましい」

 オレは喉から絞り出すように、低く、冷たい声を意識して言った。

「目に障る。今すぐ片付けろ。――それで十分だ」

 これが、今のオレにできる精一杯の悪役ムーブだった。

 オレの言葉に、執事は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻り、恭しく一礼する。

 一方、メイドの少女は、ビクッと全身を硬直させたまま動かない。やがて、オレの冷たい視線に耐えかねたように、小さな悲鳴をあげて慌てて破片を拾い始めた。

 その姿は、ただひたすらに、目の前の主人であるオレを恐れている。まるで、いつ牙を剥くか分からない猛獣を前にした小動物のようだ。

 小さな手は恐怖で震え、せっかく集めた破片をカシャリと落としてしまう。そのたびに、少女の肩が大げさなほど跳ねた。

 ……何だ、この怖がりようは。

 怒鳴ったとはいえ、ここまで怯えることもないだろうに。

 いや、違う。それほどまでに、「本来のカイゼル」は彼女に酷い仕打ちを繰り返してきたのだろう。オレの知らないところで、この小さな身体にどれだけの恐怖を刻みつけてきたのか……。

 そんなことを考えていた、その時だった。

 破片から顔を上げた彼女の横顔が、不意にオレの目に留まる。

 明るい色の髪。恐怖に怯えながらも、その奥に意志の強さを感じさせる緑色の瞳。

 その顔に、見覚えがあった。

 脳内のデータベースが、凄まじい勢いで検索を始める。膨大な『グランドクロス』のキャラクターリストの中から、目の前の少女の情報が、弾き出される。

 ――待て。まさか、こいつは。

 名前は、たしか――。

 そうだ、イオだ。

 彼女こそ、日常的にカイゼルにこき使われ、些細なミスで体罰を受け続けた結果、その歪んだ支配に深い復讐心を募らせていくメイド。

 そして、数ある破滅ルートの中でも、最も陰惨な復讐劇の末に、カイゼル・フォン・リンドベルクの寝首を掻き、その命を奪う張本人――!

 背筋が、凍りついた。

 目の前で震えながら床を掃除しているこのか弱い少女が、将来、オレを殺すのだ。

 その事実を認識した瞬間、オレはほとんど無意識に叫んでいた。

「――待て! お前はやらなくていい!」

「ひぃっ!?」

 イオが短い悲鳴を上げて飛びのいた。オレの剣幕に、また何か罰を与えられると思ったのだろう。

 まずい、脅かすつもりはなかった。だが、もう止まれない。

「どうせ、オレがわざとやったことなんだろう」

「……え?」

「お前が通りかかるのを見計らって、足を引っかけてコップを落とすよう仕組んだに決まっている。違うか? 自分が原因で割ったコップだ。自分で片付ける」

 オレの突拍子もない言葉に、イオも執事も、完全に思考が停止している。

 無理があったか。あの傲慢なカイゼルが、自分の非を認めてメイドの仕事を肩代わりするなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。

「カ、カイゼル様!? なりません、そのようなこと!」

 我に返った執事が、血相を変えてオレを止めようと駆け寄ってくる。

 しまった。完全にやりすぎた。このままではただの奇行だ。

 カイゼルというキャラクターを維持したまま、この状況を乗り切るには……!

 オレは執事の制止の手を荒々しく振り払い、憎悪に満ちた瞳で彼を睨めつけた。

「――止めるとはどういうことだ、セバス」

「は……?」

「このオレが、割れた陶器のひとつも片付けられぬと、そう言いたいのか? このリンドベルク家の次期当主を、そこまで無能だと侮辱するか!」

 理不尽なまでの、言いがかり。

 だが、これこそが悪役貴族カイゼル・フォン・リンドベルクの真骨頂だ。

 執事は「め、滅相もございません!」と顔面蒼白になり、その場に平伏した。

 そうだ、それでいい。オレは内心の焦りを押し殺し、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「わかればいい。いいか、貴様ら。これは命令だ。オレが片付け終わるまで、誰も動くな。指一本でも動かしてみろ。その腕ごと切り落としてやる」

 有無を言わさぬ脅迫。

 これで、誰も手出しはできないだろう。

 オレは震えるイオと平伏する執事を尻目に、自ら床に膝をついて破片を拾い始めた。

 前世で染み付いた、分別のある大人の手つきで、ガラスの破片を丁寧にかき集める。その間、二人は、信じがたいものを見たかのように、息を殺してただ固まっていた。

 すべて片付け終えたオレは、立ち上がるとぶっきらぼうにリリアへ尋ねる。

「……おい。怪我は、ないな?」

「は、はい……ございません……」

 イオはか細い声で答えるのが精一杯だった。

「なら、いい」

 そう言いつつも、内心オレは焦っていた。

 彼女のオレに対する恨みは、すでに相当なレベルまで蓄積されているに違いない。

 こんな付け焼き刃の行動で、長年の恨みがどうにかなるとは思えない。

 だが、それでも。

 少しでもいい……! ほんの少しでも、破滅へのカウントダウンが緩やかになってくれ……!

 オレはただ、神に祈るような思いで、目の前の少女を見つめることしかできなかった。


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