人間不信のオレが、大嫌いな「他人を蹴落とし、いずれ惨めに殺される運命」の悪役貴族。
これ以上の地獄が、果たして他にあるだろうか。
あまりの理不尽さに、思考が完全に停止する。頭が真っ白になるというのは、こういうことを言うのだろう。
「――カイゼル様、いかがなさいましたか?」
冷徹な声が、呆然とするオレを現実に引き戻した。
目の前には、銀縁のモノクルをかけた執事――確か名はセバスだったはず――が、訝しげな表情で俺の顔を覗き込んでいる。
そうだ、まだ状況は終わっていなかった。
床には陶器の破片が散らばり、メイドの少女が震えながらひれ伏している。
この状況、悪役貴族カイゼルならどう動く? 答えは一つ。激昂し、メイドを罵倒し、あるいは暴力を――。
「も、申し訳ございません! この通りでございます!」
執事は深く頭を下げ、再び謝罪の言葉を口にした。
その慇懃な態度に、オレの身体に染み付いた前世の記憶が、最悪の形で反応する。
「あ、いえ……大丈夫ですので、お気になさらず……」
――終わった。
そう口にした瞬間、場の空気が、比喩ではなく本当に凍りついた。
執事はピシリと石のように固まり、ひれ伏していたメイドも、ビクッと肩を揺らして恐る恐る顔を上げる。二人の視線が、まるで未知の生物を見るかのようにオレに突き刺さった。
しまった……!
今のは完全にサラリーマン時代の営業スマイル付き口調だった……!
カイゼルはこんな言葉遣いをしない。こんな腰の低い態度など、天地がひっくり返っても取るはずがないのだ。
不審がられる。なんだこいつは、と怪しまれる。最悪の場合、悪魔にでも取り憑かれたと思われて、問答無用で殺されるなんてことも。
どうする。どうすればいい。
ゲームの記憶を必死に手繰り寄せる。そうだ、本来のカイゼルなら、ここでこう言うはずだ。
『――ふざけるな、雑種が。我が寛大さに感謝するがいい。今すぐここから失せろ。次にその汚い顔を見たら、ただでは済まさんぞ』
そして、メイドを蹴り飛ばし、執事を睨めつける。それが正解ムーブ。
だが……!
できるか、そんなことォ!!
心の中で、全力で叫んだ。
目の前で震えているのは、オレと歳がそう変わらないか弱い少女だ。前世で培われた倫理観と常識が、全力で暴力を拒絶する。
しかし、オレが黙り込んでいる間にも、執事の疑惑は深まっていく。
「……カイゼル様? もしや、どこかお加減でも?」
モノクルの奥の瞳が、鋭くオレを射抜く。まずい、このままでは本当にまずい。
こうなったらやるしかない!
暴力は無理だ。罵倒も心が痛む。だが、何もしなければ疑われる。
ならば、その中間。良心がギリギリ傷つかず、それでいてカイゼルらしい傲慢さを最低限演出できる、絶妙なラインを――!
「……やかましい」
オレは喉から絞り出すように、低く、冷たい声を意識して言った。
「目に障る。今すぐ片付けろ。――それで十分だ」
これが、今のオレにできる精一杯の悪役ムーブだった。
オレの言葉に、執事は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻り、恭しく一礼する。
一方、メイドの少女は、ビクッと全身を硬直させたまま動かない。やがて、オレの冷たい視線に耐えかねたように、小さな悲鳴をあげて慌てて破片を拾い始めた。
その姿は、ただひたすらに、目の前の主人であるオレを恐れている。まるで、いつ牙を剥くか分からない猛獣を前にした小動物のようだ。
小さな手は恐怖で震え、せっかく集めた破片をカシャリと落としてしまう。そのたびに、少女の肩が大げさなほど跳ねた。
……何だ、この怖がりようは。
怒鳴ったとはいえ、ここまで怯えることもないだろうに。
いや、違う。それほどまでに、「本来のカイゼル」は彼女に酷い仕打ちを繰り返してきたのだろう。オレの知らないところで、この小さな身体にどれだけの恐怖を刻みつけてきたのか……。
そんなことを考えていた、その時だった。
破片から顔を上げた彼女の横顔が、不意にオレの目に留まる。
明るい色の髪。恐怖に怯えながらも、その奥に意志の強さを感じさせる緑色の瞳。
その顔に、見覚えがあった。
脳内のデータベースが、凄まじい勢いで検索を始める。膨大な『グランドクロス』のキャラクターリストの中から、目の前の少女の情報が、弾き出される。
――待て。まさか、こいつは。
名前は、たしか――。
そうだ、イオだ。
彼女こそ、日常的にカイゼルにこき使われ、些細なミスで体罰を受け続けた結果、その歪んだ支配に深い復讐心を募らせていくメイド。
そして、数ある破滅ルートの中でも、最も陰惨な復讐劇の末に、カイゼル・フォン・リンドベルクの寝首を掻き、その命を奪う張本人――!
背筋が、凍りついた。
目の前で震えながら床を掃除しているこのか弱い少女が、将来、オレを殺すのだ。
その事実を認識した瞬間、オレはほとんど無意識に叫んでいた。
「――待て! お前はやらなくていい!」
「ひぃっ!?」
イオが短い悲鳴を上げて飛びのいた。オレの剣幕に、また何か罰を与えられると思ったのだろう。
まずい、脅かすつもりはなかった。だが、もう止まれない。
「どうせ、オレがわざとやったことなんだろう」
「……え?」
「お前が通りかかるのを見計らって、足を引っかけてコップを落とすよう仕組んだに決まっている。違うか? 自分が原因で割ったコップだ。自分で片付ける」
オレの突拍子もない言葉に、イオも執事も、完全に思考が停止している。
無理があったか。あの傲慢なカイゼルが、自分の非を認めてメイドの仕事を肩代わりするなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「カ、カイゼル様!? なりません、そのようなこと!」
我に返った執事が、血相を変えてオレを止めようと駆け寄ってくる。
しまった。完全にやりすぎた。このままではただの奇行だ。
カイゼルというキャラクターを維持したまま、この状況を乗り切るには……!
オレは執事の制止の手を荒々しく振り払い、憎悪に満ちた瞳で彼を睨めつけた。
「――止めるとはどういうことだ、セバス」
「は……?」
「このオレが、割れた陶器のひとつも片付けられぬと、そう言いたいのか? このリンドベルク家の次期当主を、そこまで無能だと侮辱するか!」
理不尽なまでの、言いがかり。
だが、これこそが悪役貴族カイゼル・フォン・リンドベルクの真骨頂だ。
執事は「め、滅相もございません!」と顔面蒼白になり、その場に平伏した。
そうだ、それでいい。オレは内心の焦りを押し殺し、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「わかればいい。いいか、貴様ら。これは命令だ。オレが片付け終わるまで、誰も動くな。指一本でも動かしてみろ。その腕ごと切り落としてやる」
有無を言わさぬ脅迫。
これで、誰も手出しはできないだろう。
オレは震えるイオと平伏する執事を尻目に、自ら床に膝をついて破片を拾い始めた。
前世で染み付いた、分別のある大人の手つきで、ガラスの破片を丁寧にかき集める。その間、二人は、信じがたいものを見たかのように、息を殺してただ固まっていた。
すべて片付け終えたオレは、立ち上がるとぶっきらぼうにリリアへ尋ねる。
「……おい。怪我は、ないな?」
「は、はい……ございません……」
イオはか細い声で答えるのが精一杯だった。
「なら、いい」
そう言いつつも、内心オレは焦っていた。
彼女のオレに対する恨みは、すでに相当なレベルまで蓄積されているに違いない。
こんな付け焼き刃の行動で、長年の恨みがどうにかなるとは思えない。
だが、それでも。
少しでもいい……! ほんの少しでも、破滅へのカウントダウンが緩やかになってくれ……!
オレはただ、神に祈るような思いで、目の前の少女を見つめることしかできなかった。