第2話:偽りの家族
[雪乃の視点]
「三年前からだ」
玲司の答えが、私の胸を鋭利な刃物で切り裂いた。
三年前。私たちが結婚三年目を迎えた、あの幸せだった頃から。
窓から冷たい風が吹き込んでいる。十一月の夜風が、部屋の温度を一層下げていく。
「なぜ」
声が震えていた。
玲司は疲れたように頭を抱えた。
「仕事でもう十分疲れてるのに、家に帰ってもお前の面倒を見なきゃならないなんて」
面倒?
「お前は情緒不安定になって狂いそうになる。沙耶は違う。小さな太陽みたいだ。一緒にいると心が軽くなるんだ」
私の存在が、夫にとって重荷だったというのか。
「ただ少しだけ、息抜きが必要なんだ。わかってくれ、雪乃」
わかってくれ、だって?
五年間、私は何をしてきたのだろう。毎朝早起きして朝食を作り、玲司のシャツにアイロンをかけ、彼の好きな料理を覚えて、彼の疲れを癒そうと必死に尽くしてきた。
それが全て、彼にとっては「面倒」だったのか。
「お前を見ていると、醜くて、正直気持ち悪くなるんだ」
その瞬間、世界が止まった。
醜い。気持ち悪い。
夫の口から出た言葉が、私の心を完全に破壊した。何も言い返せない。声も出ない。
玲司の携帯電話が鳴った。
彼は慌てて電話に出る。
「沙耶?どうした?」
声のトーンが一変していた。さっきまでの疲れ切った表情が嘘のように、顔色を変えて立ち上がる。
「樹(いつき)が?高熱?わかった、すぐ行く」
樹?
「樹って誰?」
私の問いかけを無視して、玲司は上着を掴んだ。
「玲司、答えて。樹って誰なの?」
手を伸ばそうとした私を、玲司は乱暴に振り払った。
「後で話す」
そして、家を飛び出していく。
私は一人、散らかった居間に取り残された。
――
病院の廊下を歩きながら、私の心臓は激しく鳴っていた。
玲司の車を追いかけて、ここまで来た。
小児科病棟。
なぜ玲司がここにいるのか。樹とは一体誰なのか。
病室の前で足を止める。
ドアの隙間から、中の様子が見えた。
ベッドの上に、小さな男の子が横たわっている。五歳くらいだろうか。
そして、そのベッドの両脇に座る二人の人影。
玲司と沙耶。
まるで、本当の夫婦のように。
「樹、大丈夫だからね」
沙耶の優しい声が聞こえる。
「パパ、頭が痛いよ」
子供が玲司を見上げて言った。
パパ?
「すぐに良くなるから、心配しないで」
玲司が子供の頭を撫でている。その表情は、私が見たことのないほど優しかった。
私は病室のドアを開けた。
三人の視線が一斉に私に向けられる。
「雪乃?なぜここに」
玲司の声が震えていた。
沙耶は慌てて立ち上がり、子供の前に立ちはだかる。
「樹、この人はパパの友達だよ」
玲司が子供に向かって言った。
友達?
私は夫の妻なのに、友達?
氷のような怒りが、私の心を支配した。
「そうね」
私は子供に向かって微笑んだ。
「一年前に、あなたが私の子供を殺した、哀れな女なんだから」
病室が静寂に包まれた。
玲司の顔が青ざめ、沙耶が息を呑む。
「雪乃、何を言って――」
玲司が私の腕を掴み、力ずくで病室から引きずり出そうとした。