第9話:悪意の糸
バックミラーに映る葵の姿が、零司の胸を鋭く刺した。
道路脇に立ち尽くす妻の小さなシルエットが、車が遠ざかるにつれて次第に見えなくなっていく。
(戻れ)
心の奥で声が叫んでいた。
(今すぐ車を止めて、葵を迎えに戻れ)
だが零司の足は、アクセルを踏み込んでいた。電話の向こうで泣き叫んでいた依恋の声が、耳から離れない。
「出血してるの……お腹が痛くて……」
妊娠中の女性の緊急事態。それは何よりも優先されるべきことだった。
そう自分に言い聞かせながら、零司は車を走らせ続けた。
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病院の病室に駆け込んだ零司と蒼を迎えたのは、ベッドでスマートフォンをいじっている依恋の姿だった。
顔色は良く、出血した形跡もない。
「依恋、大丈夫なのか?」
零司の眉がひそめられた。電話での切迫した様子とは、あまりにもかけ離れている。
「あなた……」
依恋が甘えるような声で零司を見上げた。
「変な呼び方はやめろ」
零司の声は冷たかった。
依恋の表情が一瞬強張ったが、すぐに弱々しい笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。でも、あなたが来てくれて安心したの」
蒼が病室の隅で、不安そうに二人を見つめていた。
「医師に話を聞いてくる」
零司はスマートフォンをソファに置くと、病室を出て行った。
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零司の足音が廊下に消えた瞬間、依恋の表情が一変した。
弱々しい笑みは消え、冷たい計算の光が瞳に宿る。
ソファに置かれた零司のスマートフォンが振動した。
依恋は素早く立ち上がり、電話に出る。
「はい、朽木です」
「旦那様でしょうか。こちら、運転手の田中です」
男性の声だった。依恋は一瞬戸惑ったが、すぐに状況を理解した。
葵を監視していた運転手からの報告だった。
「指定された場所に奥様の姿が見当たりません。ただ、近くで交通事故が……」
依恋の唇に、薄い笑みが浮かんだ。
「そんな些細なことに構ってる暇はないの」
依恋は一方的に電話を切った。
交通事故だって?
死んでくれればちょうどいい。
どんな手を使おうと、朽木家の奥様は私よ!
依恋は零司のスマートフォンの電源を切ると、何事もなかったようにベッドに戻った。
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「検査の結果、母子ともに異常ありません」
医師の言葉に、零司は安堵の表情を浮かべた。