「もしもし、お母さん?」
「今日は帰ってきなさい。叔父さんが海外から戻ったのよ」
「でも、まだ片づけておきたいことがあるの」──七海が戻る前に、きちんと準備を整えておきたかった。
「ダメ!」母の声は一切の逆らいを拒んでいた。続けざまに言う。「叔父さんがちょうど帰国したところなの。もうそっちへ迎えに向かってるから、校門の外で待っていなさい」
「えっ?!お母さん、もしもし?ちょっと、もしもし?!」
切れた画面を見つめながら、詩織の瞳にふっと影が差した。
幼い頃から……両親の冷たさが彼女の心を徐々に凍らせていったのだとしたら、美雪だけへの露骨な偏愛は、その氷にさらに深い傷を刻んだ。
美雪が海外で苦労してきたから――ただそれだけで、ここまで露骨に差をつけられるものなのだろうか。
彼らは手を上げることも、声を荒らげることもない。けれど、あの冷え切った視線が向けられるたびに──詩織には、それがどんな刃物よりも痛かった。
……
詩織はすでに校門を出て、「叔父さん」と呼ばれる人物が来るのを黙って待っていた。家に帰る気など本当はなかった。ただ──おじいちゃんが自分を案じてくれていることだけが、足を向けさせた理由だった。
しかし、しばらく待っても誰一人現れず、校門前の人影はすっかり途絶えていた。残っているのは、道端に停まったパサートとアウディ、そして控えめながら圧を放つ黒いマイバッハだけだった。
なんて叔父さんだろう。十年以上顔を合わせていなかったせいで、そんな人がいたことさえ忘れかけていた。
しばらく不満を抱えていたが、ふと詩織は首を傾げた。叔父さん……もしかして、あの車の中で待っているのでは?
迷いながらも、詩織はその車へと歩みを進めた。
最初のパサートのそばを通り過ぎると、中には中年の女性が座っていた。詩織は次の車へ向かう。アウディA6——窓が濃くスモークされていて中が見えにくく、思わずもう少し近づいた。
よく見えないまま覗き込もうとしたその瞬間、突然窓が下がり、ビール腹を突き出した薄毛の中年男が顔を出した。詩織は思わず飛び上がる。男は彼女の清楚で整った顔立ちを見るなり、いやらしい目つきで上から下まで値踏みしてきた。「お嬢ちゃん、なんか用でもあるのかい?」
詩織は眉をひそめ、きゅっと唇を結んで、その場を離れた。
なんて図々しいのだろう。父より年上なくせに、平気で「お嬢ちゃん」なんて呼ぶなんて。
彼女の叔父さんなら、せいぜい三十代のはずだ。
道端に残っているのは、最後の一台──あの黒いマイバッハだけだった。だが詩織はその車を見た瞬間、足がすっかり止まってしまった。
七海は車に詳しく、詩織もその影響で耳にしていた。あのマイバッハは世界限定、二億円超えの超高級車で、金があっても簡単に手に入る代物ではない。だからこそ──あんな車と、自分が直接でも間接でも関わるなんて、考えたこともなかった。
詩織はあと五分だけ待つことにした。もしその “叔父さん” とやらが現れなければ、タクシーで帰ろう――そう決めた。
マイバッハからさほど離れていない場所に立ちながら、詩織はふと身震いした。気のせいかもしれない――それでも、車内から誰かにじっと見られているような感覚がした。
思わずそちらに視線を向けると、窓越しに男性の横顔がぼんやりと浮かんだ。漆黒の短髪、引き締まった顎のライン、磨き上げられたように整った容貌。
指先にタバコを挟み、漂う煙の中で輪郭がゆらりと浮かび上がる。その姿は、言葉にできない独特の気配をまとっていた。
退廃的なのに、どこか優雅。
詩織はしばらく見とれてしまい、知らぬ間に心を奪われたような感覚に落ちた。
突然、後部座席の窓がゆっくりと下がり始めた。詩織はハッとして慌てて顔をそむけた。まるで、こっそり見ていたのを悟られたくないかのように。
窓が下がり、そこに一筋の手がそっと置かれた。タバコを挟んだ指は驚くほど長く、関節のラインまで美しく際立っていた。
そして詩織は、このときまだ知らなかった──
まるで大きな灰色の狼が、小さなうさぎの迷いをじっと見据えているのだということを。
彼女がタクシーを呼ぼうと手を伸ばした瞬間、彼は静かな眼差しのまま薄い唇をわずかに開いた。「――降りろ」
彼の声が落ちるやいなや、前席の東山は即座に車を降りた。
詩織がちょうどタクシーを呼んでいたそのとき、視界の端で車から誰かが降りる気配がした。思わずそちらを見ると、その人物は彼女に向かって一直線に歩いてきた──。
「叔父さん?」
詩織は、目の前に立つスーツ姿の若々しく整った男性を見上げ、思わず目を見開いた。そして、おそるおそる問いかけた──。
「叔父さん?」
東山は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を整えた。「叔父さんは車の中にいらっしゃいます。僕たちが迎えに来ました」
彼は「叔父さん」が誰なのか知らない。だが──社長が「彼女を乗せろ」と命じたのだから、それで十分だった。
車の中に?
詩織は思わずそちらに視線を向けた。先ほど朧げに見えたあの影が、そこに静かに座っている──。
この車……本当に自分の叔父さんのものなのだろうか?
詩織は一瞬驚いたが、すぐに気持ちを整え、軽くうなずいて彼の後ろについて車へ向かった。
東山は後部座席のドアを開け、頭をぶつけないようそっと手を添えた。詩織は「ありがとうございます」と小さく礼を言い、ドアは静かに閉まった。
「あなたが叔父さ──ごほっ、ごほっ!」
問い終える前に、タバコの煙が喉に刺さり、思わず眉をひそめて咳き込んだ。彼女はタバコの匂いが何より苦手で、窓が開いていても全く耐えられなかった。
「具合でも悪いのか?」
低くかすれたその声は妙に耳に残る響きで、どこかで聞いたことがあるような気がした。
詩織はまだ咳をしながら「だ、大丈夫です……」と顔を上げ、手を振ろうとした。だが――その相手の顔をはっきりと捉えた瞬間。「――っ!!」思わず短い悲鳴が漏れ、血の気が一気に引いていった。顔面は紙のように真っ白になった。
「開けて!ドア開けて!降ろして!」
慌てて振り向き、ドアノブを何度も押し、必死で叩いた。だが――どれだけ力を込めても、ドアはぴくりとも動かなかった。
ドアが開かないと悟った詩織は、鞄をぎゅっと抱きしめるようにして身を縮め、青ざめた顔のまま警戒心むき出しで彼を見つめた。
なんてこと……!どうして、よりによってこの人とまた会う羽目になるの──!?
三十〜四十代の叔父さんなんて、どこにもいない──。詩織の頭の中は、その一点で真っ白になった。
目の前の男は、どう見ても二十代半ば。しかも――よりによって、あの日、部屋を間違えて思いきり平手打ちしてしまった相手その人だった。
逃げるとき、「もう二度と会いたくない」と歯ぎしりしたはずなのに──たった一ヶ月ちょっとで、彼は平然と姿を現したどころか、よりにもよって自分がその男の車に乗っているなんて!
詩織は完全に混乱し、全身が一気に警戒モードに突入した。
「家から電話が来なかったのか。帰ってこいって言われただろう」
彼はわずかに眉を寄せ、ゆっくりと顔を向けて、淡々と問いかけた。
「な、なに……?」
詩織は呆然としたまま目を大きく見開き、信じられないという表情を浮かべた。どうして――どうして彼が、家から電話があったことを知っているの?
拓海は顔をそらし、タバコを吸おうとした――が、先ほど詩織が眉をひそめて咳き込んだ姿を思い出し、目にかすかな光がよぎった。気づかれないように火を消すと、冷ややかな、それでいてどこか距離を感じさせる声で言った。「知らなかったのか。叔父さんが迎えに来るって」
お、叔父さん……
「し、知ってました。ただ──」そう言いかけたところで、詩織は何かに気づいたように、ぴたりと動きを止めた。
詩織は彼を見つめた。頭の先からつま先まで、まるで何かを確かめるように真剣に。
彼、彼はまさか自分の――叔父さん……?
拓海は一切こちらを見ず、冷静なまま何でもない口調で言った──。
「――俺がお前の叔父だ」