第7話:血の代償
[刹那の視点]
男が私に向かって歩いてくる。
街灯の下で、その顔がはっきりと見えた。電車での痴漢。間違いない。
「今度は逃がさない」
男の声が低く響く。
私は後ずさりした。背中が壁にぶつかる。
「やめて!」
男が私の腕を掴んだ。力が強い。
でも、今度は違う。私はもう、誰にも頼らない。
ポケットに手を突っ込み、家の鍵を握りしめる。
「離して!」
鍵を男の手の甲に突き刺した。
「うあっ!」
男が手を離す。その隙に、私は男の股間を思い切り蹴り上げた。
「ぐあああ!」
男が地面にうずくまる。
私は男のポケットからスマートフォンを奪い取り、震える指で110番に電話をかけた。
「警察ですか?痴漢に襲われました。場所は……」
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十分後、パトカーが到着した。
「大丈夫ですか?」
警察官が私に声をかける。男は手錠をかけられ、パトカーに押し込まれていた。
「はい。でも、さっきここで、通報とか……なかったんですか?」
私は警察官に尋ねた。
冬弥が「警察を呼ぶ」と言ったはずなのに。
「いえ、あなたからの通報だけです」
警察官の言葉に、私の心が沈んだ。
冬弥は通報すらしていなかった。
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[刹那の視点]
手続きと治療を終え、帰宅したのは午前三時過ぎだった。
リビングのソファに横になり、目を閉じる。体中が痛い。男に殴られた頬が腫れ、腕には青いあざができていた。
玄関のドアが開く音。
冬弥と怜士が帰ってきた。
「刹那?」
冬弥の声が聞こえる。でも、近づいてこない。
怜士が私の前に立った。
「またみっともない姿でお父さんに縋って……!」
怜士が私を見下ろしながら言い放つ。
「静かに休みたいの」
私はそれだけ言った。反論する気力もない。
冬弥が私の傷を一瞥する。でも、気遣う言葉は何もない。
この家は、私にとって安らげる場所じゃない。
そのことを、改めて思い知らされた。
冬弥は何も言わずに、また家を出て行った。
私は一人、ソファで丸くなった。
あと半月。
心の中で、そう数えた。
三十分後、冬弥が薬袋を手に戻ってきた。
「傷に塗れ」
冬弥が私に薬を差し出す。
「今さらそんな芝居がかったことして、何の意味があるの?」
私は薬を受け取らなかった。
「前から言ってただろ。あんな所へ行くなって。聞かないから、自業自得だ」
冬弥が逆上する。
私が襲われたのに、私を責めている。
「美夜さんとの待ち合わせ場所だったの?あのバー」
私は疲れ切った声で尋ねた。
「関係ない」
「関係ないって……」
でも、もうまともな会話にならない。
冬弥のスマートフォンが鳴った。美夜からの電話だった。
「美夜?……ああ、今から行く」
冬弥が電話を切る。
「怜士、行くぞ」
「やった!美夜さんに会える!」
怜士が嬉しそうに飛び跳ねる。
二人は私を置いて、また出て行った。
私は目を閉じた。
しばらくして、空腹で目が覚めた。冷蔵庫は空っぽ。食料を買いに行かなければ。
重い体を起こし、外に出る。
家の角を曲がったところで、見慣れた二人の姿が目に入った。
冬弥と美夜が、親密に話している。
「刹那のことは気にしないで」
美夜の声が聞こえる。
「あの人、もう終わりよ」
その時、背後から気配を感じた。
振り返る暇もなく、鋭い痛みが腹部を貫いた。
「うっ!」
もう一度。
刃物が私の腹に突き刺さる。
「冬弥、怖いわ!」
美夜の叫び声が響く。
男が逃げていく。あの痴漢だった。
私の体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。視線の先、遠くに、まだ美夜のそばに立つ冬弥の姿があった。