栄閑仙が窓を閉めたときには、もう遅かった。翼を広げた大鳥が、こちらを的確に捉えている。前世では窓も戸も固く閉ざしていたから遭遇しなかった光景──「初期の怪物は弱い」とは聞くけれど、この鳥はどうだろう。栄閑仙の視線が、無言の計算を始めた。
鳥は諦める様子もなく、窓を、力任せにつつき始めた。網戸が、あっという間に破られる。
鋭い嘴が、強化ガラスを、こつこつ、がつがつと、執拗に叩いた。
その、あまりに大きな体。栄閑仙は、ここで末世初期の不安定な時期を乗り切るつもりでいた。この場所を、鳥に破壊させるわけにはいかない。
万一、強化ガラスまで破られてしまえば、また別の拠を探さねばならなくなる。
そう思うと、栄閑仙は踵を返し、部屋の奥へと向かった。
クローゼットから、1本の鍵を取り出す。金庫の鍵だ。中には、重要書類や各種カード類、そして、1本の軍用ダガーと、伸縮型警棒に似たものが収められている。
前に栄閑仙が外へ持ち出した軽量タイプと外観は同じだが、こちらはずしりと重い。試してみると、精神力が増し、経脈が拡張され、修練法によって力が増したせいだろうか。
以前は、両手でもやっとだった重量が、今は片手で持ち上がる。依然として重みは感じるものの、持ち上げられさえすれば、もう片方の手で、仕掛けを解くことができる。
そう、この奇妙な警棒には、仕掛けが隠されているのだ。全体を持ち上げなければ、その仕掛けを作動させることはできない。
棒状の根元にある突起を親指で押し込み、空中へひと振り。カチリ、という乾いた音とともに、短い警棒は3倍の長さへ伸びる。手元に近い2段は警棒のままだが、その先には、細刃湾刀が姿を現した。
「髪の毛一本、触れずとも断ち切れるほどの切れ味というものを、知っているか」と、かつて寧青雲が酔った勢いで囁いた言葉が、耳裏に蘇る。
この湾刀の刃は、まさに、その恐るべき切れ味というものを、栄閑仙に知らしめたのだった。
寧青雲は、この武器の由来についても聞かせてくれた。
その夜、寧青雲は得意げに語った。この武器を父親の書斎で見つけた。好奇心から手に取ってみただけだった。彼は、幼い頃から人並外れて力が強く、この小さな警棒の、手に馴染む感触が気に入ったらしい。
誰かが書斎に入ってきたため、とっさに握りしめ、袖の中に隠して、そのまま持ち出してしまったのだ。
少し見たら、すぐに返しに行くつもりだった。
ところが、思いがけず、大騒動になってしまったという。彼が書斎を出て間もなく、家中の出入り口が封鎖され、警報が鳴り響いた。物が無くなった、と、全員が身体検査をさせられたのだ。
今思えば、ご当主は、子供が持ち去ったなどとは、夢にも思っていなかったのだろう。祝いに訪れた客の中に、敵対勢力の者が紛れ込んでいると、疑ったに違いない。
ご当主の、考えすぎだった。身内の子供を入念に調べる者など、いなかった。何より、ご当主自身、大人が持ち上げるのにも苦労するような武器を、子供が軽々と持ち去ったなどとは、想像だにしなかったのだろう。
まだ幼かった寧青雲は、その物々しい雰囲気に、すっかり怯えてしまった。自分が持ち出したと言い出すこともできず、持ち帰ってベッドの下に隠し、そのまま忘れてしまったのだという。大人になってから、偶然、子供の頃のベッドの下からこれを見つけ出し、うっかり仕掛けに触れて、武器の正体を知らされた。
それが、得体の知れない素材で作られた、世にも稀な凶器であることを。
今、その武器は、栄閑仙のものとなった。前世では、あまりに重すぎたため、持ち出すことはなかった。今思えば、なんという無駄をしていたことだろう。
窓辺へ戻り、窓を開けた。大鳥の鋭い爪が、一瞬で網戸を引き裂き、その嘴が、栄閑仙の手を狙って、襲いかかってくる。
金属とも石ともつかぬ、冷たい光沢を放つ、鋭利な嘴。その一撃が、白い手の甲に、大きな穴を穿つであろうことは、想像に難くなかった。
狭い窓の外枠には、足をかける場所もない。大鳥は、翼をはためかせ、空中に留まっている。栄閑仙は一歩も退かず、湾刀を弧を描くように送る。
危機を察した大鳥が、嘴を瞬時に引いた。
その瞬間。翼を広げ、体を起こした鳥の、柔らかい腹部が、無防備に晒された。
好機だ。栄閑仙は、手にした武器を、力いっぱい前方へ突き出す。大鳥は、目の前の刃を、どこか小馬鹿にしたように見つめている。届くものか、とでも言うように。
栄閑仙は、かすかに笑みを浮かべ、先ほどのボタンを、もう一度、強く押した。湾刀が、さらに、びゅんと伸びる。
「キィーッ!」断末魔のような、鳥の悲鳴。湾刀は、的確に、大鳥の翼の付け根を貫いていた。片翼を傷つけられた鳥は、バランスを失い、体を傾かせ、まっすぐに、下へと落ちていく。まずい、と栄閑仙は心の中で叫び、慌てて湾刀を収めた。
鍵を手に、ドアを閉め、エレベーターで階下へ降りる。幸い、まだ電気は通っていた。もし階段を使わされていたら、獲物を誰かに横取りされていたかもしれない。
階下へ降りると、無残な姿となった大鳥の死骸の上に、薄い書物が1冊、ふわふわと浮かんでいるのが見えた。
哀れな鳥は、地面に叩きつけられて死んだのだ。色とりどりの羽根が散乱し、辺り一面、血に塗れている。
栄閑仙は、書物を回収し、大鳥の死骸を引きずって家へと戻った。この書物の価値を知る者がいない、末世初期だからこそ、可能なことだ。
あと半年もすれば、第一波の怪物が落とした書物は、市価が跳ね上がる。しかも、金を出しても、手に入らないほどに。
家では、萱ちゃんが、弟の小洛を連れて、倉狸の死骸を、あれこれと調べていた。子供は、何にでも好奇心を持つ年頃だ。恐怖心など、ないらしい。小洛は、時折、手を伸ばしては、ちょんちょんと、死骸に触れている。
母親が、大きな鳥を引きずって戻ってきたのを見て、歓声をあげて駆け寄ってきた。「ママ、ママ、これなあに? 萱ちゃん、見たことない。どうして動かないの? ママがやっつけたの?」寝起きの、ぼんやりとした状態から抜け出した萱ちゃんは、たちまち、質問攻めを始めた。
小洛も、じっとこちらを見つめている。ぺちゃくちゃと喋り続ける娘と、好奇心いっぱいの息子を前に、栄閑仙は、仕方なく言った。「まず手を洗うこと。朝ごはんを片づけて、それからお勉強。夜に時間があればお話ししてあげるわ」
娘は、おしゃべりだ。その質問には、時折、頭を抱えさせられる。
今は、娘の相手をしている時間はない。準備すべきことが、山ほどあるのだ。
食事を終え、栄閑仙はテレビをつけてみたが、電波は受信できなかった。スマートフォンも、圏外のままだ。栄閑仙は、ゆっくりと、前世の記憶を辿る。通信は、ずっと回復しなかったはずだ。あと3日で電気が、5日で水道が止まる。ガスが、最も長く持ちこたえ、半月後に、ようやく止まったのだったか。
前世の記憶によれば、末世初期の3ヶ月間が、最も混乱した時期だった。怪物が現れ、その能力も未知数のまま、無秩序が支配する。無闇に外へ出た人々の多くが、無残にも殺戮された。平和な社会に生きてきた人間の体力や反応速度では、怪物に太刀打ちできるはずもなかった。
家に閉じこもった人々も、安全とは言えなかった。怪物の鋭敏な嗅覚と、強大な力の前には、隠れ場所など、容易に見つけ出されてしまう。堅牢なはずの家屋も破壊され、初期の怪物は、人々を、抵抗する術もなく殺戮していった。
怪物は狩人。人間は、屠られるのを待つ、子羊に過ぎなかった。
この点から見れば、あの時、子供たちを連れて家に留まったのは、正しい判断だったといえる。前世で母子3人が生き延びられたのは、栄閑仙の判断と、安全な住居があったからだ。彼女たちが住んでいたのは高級マンションで、建物は非常に堅牢だった。住まいは17階。飛行する怪物は比較的少なく、大半は地上を徘徊するタイプだったため、これほどの高層階まで、怪物が上がってくることはなかったのだ。
加えて、家には食料の備蓄も十分にあった。栄閑仙は、子供たちと家の中に身を潜め、最も混乱し、多くの犠牲者が出た時期を、なんとか乗り切ることができたのだった。
やり直しの今、栄閑仙は、この家を堅固な砦とし、末世初期において、最大限の利益を得ることを決意した。
そうしてこそ、この先、余裕を持って、子供たちにより良い生を与えることができるのだから。
今は、香袋があり、使い勝手の良い武器があり、最上級の修練法がある。身のこなしも、前世の同時期とは比べ物にならない。この、世界に満ち溢れる霊気を利用し、まずは、自らの力を高めることこそが、肝要なのだ。