第3話:壁の向こうの真実
[氷月詩織の視点]
踊り場の影に身を潜めて、私は息を殺していた。
怜が美夜の頭を優しく撫でている。
「雫のことは心配いらない。影宮家の戸籍に入れる。正式に俺の娘として」
「本当に?」
美夜の声が震えている。
「ああ。君が雫を産んでくれた功労者だからな。母も君のことを気にかけていたんだ」
義母が美夜の存在を知っていた。
頭の中で雷が落ちたような衝撃が走る。
「でも、詩織さんは……」
「詩織には手を出すな。あいつは俺の妻だ」
妻。その言葉が空虚に響く。
「君との先行入籍は、君が海外でいじめられないようにするためだった。分かってくれ」
先行入籍。つまり、怜は最初から美夜と結婚していたのだ。
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怜は美夜の肩を抱き、廊下の奥へと歩いていく。二人の足音が遠ざかっていく中、詩織は壁に背中を預けて崩れ落ちそうになった。
義母も、最初から全てを知っていたのだ。詩織が必死に尽くしてきた5年間。毎朝の弁当作り、義母の好みに合わせた料理、家事の完璧な管理。全てが無意味だったのだ。
「私は……何だったの?」
声にならない呟きが唇から漏れる。
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[氷月詩織の視点]
これまでの努力が全て無駄だった。
義母の冷たい視線の意味が、今になって分かる。私は最初から、影宮家の一員として認められていなかったのだ。
足音が再び聞こえてきた。
怜が美夜を強引に引き寄せている。
「こっちに来い」
「怜、ここは……」
「大丈夫だ。誰もいない」
二人は無人の物置部屋へと消えていく。
壁一枚隔てた向こうから、すぐに音が聞こえ始めた。
衣擦れの音。
荒い息遣い。
「詩織は堅すぎるんだよ……君みたいに海外で奔放に過ごしてきた女じゃないからな」
怜の声が壁越しに響く。
私を貶める言葉。
美夜を褒める言葉。
「ああ、怜……」
美夜の甘い声。
膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
壁に手をついて、必死に立ち上がろうとする。でも、体が震えて思うように動かない。
「もう……嫌」
涙が頬を伝って落ちる。
ふらつく足で、私は院長室へ向かった。
「院長先生」
ドアをノックする。
「氷月さん、どうされました?顔色が……」
「雫ちゃんの個人資料を見せていただけませんか?」
院長が困惑した表情を浮かべる。
「個人情報ですので……」
「養子縁組を検討しているんです。詳しい情報が必要なんです」
しばらく迷った後、院長は資料を取り出した。
雫の生年月日。
5年前の春。
私と怜が結婚してから、わずか半年後。
プロポーズの時期には、既に美夜は妊娠していたのだ。
「引き取るつもりはありません」
私は震える声で言った。
「養子縁組の手続きを進めてください」
「氷月さん?」
「私には関係のない子です」
怒りと悔しさで体が震える。
その時、院長室のドアが勢いよく開いた。
「雫を引き取らないって?なんで勝手に決めるんだよ!」
怜が怒りの形相で立っている。
「怜が引き取るって決めたとき、私に相談した?」
冷たく言い返す。
怜の背後から、美夜がひょっこりと顔を出した。
「やっほー、詩織。久しぶり」