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「ガチャリ」
ドアが開く音に、石川瑠那(いしがわ るな)の全身が強張った。
ネクタイを外しながら入ってきた男を見て、彼女は慌てて隅から飛び出すと、その胸に顔を埋め、背伸びして唇を重ねた。
畑中颯太(はたなか そうた)の手が一瞬止まる。突然抱きついてきた女の柔らかい身体、ふわりと漂う甘い香りに、思わず意識が揺らいだ。
「ドンッ!」
ベッドに押し倒され、スーツのボタンが外され、続いてシャツも剥がされる。羽毛のように軽いキスが首筋をくすぐり、思わず喉を仰け反らせたとき、腰に触れた指先がふと違和感を覚えた。
――妊娠線。その無惨な痕は、彼がなぜこの女を妻にしたかをいやでも思い出させる。
「石川瑠那!」
颯太は彼女を乱暴に突き放し、ランプをつけた。鋭い光が、先ほどまで漂っていた熱を一瞬で吹き飛ばす。
「お前、あの時もそんなふうに仕掛けてきたんだろ!本当に下劣だな!だからあの子も守れなかったんだ!」
冷酷な言葉を吐き捨てると、彼は鼻で笑い、バスルームへ入っていった。
瑠那は何も言わず、俯いたままお腹に触れた。あの子はもういない。病院で目を覚ましたとき、医者から「助からなかった」と告げられ、彼女は一度も顔を見ることさえできなかったのだ。
涙を堪える。重病の祖母を救うには莫大な治療費が必要で、姑ははっきり言った。「子を産んで初めて畑中の金を出す資格がある」と。
ほどなくしてシャワーを終えた颯太は、再びきちんと仕立てられたスーツ姿で現れ、珍しく鏡の前でネクタイを整えていた。
「颯太……母さんと父さんは孫を望んでいるわ。協力してくれない?子どもさえ産めば――」
言葉の途中で、彼の大きな手が彼女の喉を締め上げた。「石川瑠那!お前ごときが畑中の子を産もうだと?笑わせるな!忘れるな、自分がどうして畑中家に嫁いできたのか。身の程をわきまえろ!」
息が詰まり、顔が真っ赤になる。必死に彼の腕を爪で抉ったが、無情に振り払われ、ベッドに倒れ込むと荒く呼吸を繰り返すしかなかった。
大学三年の春、大きなお腹を抱えて彼女は畑中家の長男・颯太に嫁ぎ、それきり学生生活を終わらせた。
だが待っていたのは、冷たい視線と徹底した排斥だった。
「着替えろ。叔父さんが海外から戻ってきた。今夜は畑中家で会食だ」
無機質な声で言いながら、喉元のボタンを留める颯太。瑠那がそっと手を伸ばして助けようとすると、その手は容赦なく叩き落とされた。
「調子に乗るな!」
拳を強く握りしめる。彼がこんなにも冷たいのは、ずっと心に別の女を抱いているからだ――彼にとって唯一無二の「本命の女」。何という皮肉。
「行かないわ、颯太。……離婚しましょう。協議書は枕元の引き出しにある。一千万円さえ渡してくれれば、すぐにでもサインする。あなたも前から離婚を望んでいたでしょう?」
初めて毅然とした声でそう告げ、髪をまとめ上着を羽織る。
子どもが望めないなら、もう終わりでいい。祖母を救うために、金さえ手に入ればそれでいいのだ。自分から逃れるために、彼はこの金額を出すかもしれない。
五年間、畑中家で耐えてきた屈辱。愛情など、とうの昔に消え失せていた。
颯太は鼻で笑う。もし石川瑠那さえいなければ、自分は最愛の女と結ばれていたはず。だが、まとわりつくガムのような存在が、ようやく出て行こうというのか。
協議書を手にした彼の眼差しが冷たく光る。「一千万円?この五年、畑中家で何もせずに居座ってきただけで、その慰謝料を望むのか?馬鹿を言うな。その金は、物もらいにくれてやったほうがましだ!」