立川は名古屋でもかなり有名なジュエリー会社だ。
詩織がここを訪れたのも、その名に惹かれてのことだった。
少なくとも、ここでは偽物を売ったり、客を騙したりすることはない――そう思えたから。
店に入るとすぐ、笑顔の店員が歩み寄ってきた。詩織の質素な服装を見ても、態度を変えることはない。
「いらっしゃいませ、お客様。何かお探しでしょうか?」
歯並びの整った笑顔がまぶしい。この接客態度こそが、立川ジュエリーが名古屋で評判を得ている理由だった。
「客は神様」という言葉がまだ浸透していないこの時代に、立川はすでに一歩先を行っていた。
「えっと……玉石を見たいんです」詩織は軽く会釈して答える。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
店員は右手を伸ばし、店の右奥にあるショーケースへ案内した。
ガラスケースの中には、羊脂のような艶を放つ白玉、そして翠色に輝く翡翠が並んでいる。
――かわいい。
かわいい?
思わずそんな言葉が浮かび、詩織は自分で首を傾げた。
玉石に“かわいい”なんて、どうしてそんな言葉が出たんだろう。
「お客様、こちらの『リーフモチーフ』はいかがでしょう?今年の人気デザインなんですよ」
「……うん、見せてください。」
疑問を振り払うように、詩織は頷いた。
形なんてどうでもよかった。
今の目的は、自分に異能があるのか――それを確かめること。
店員が取り出したのは、葉っぱの形をした和田玉だった。
受け取った瞬間、詩織の胸が高鳴る。
(……何も起きなかったらどうしよう)
そう思いながらも、玉にそっと触れる。
指先に伝わる滑らかな温もり。悪くはない。でも――自分のあの指輪ほどではない。
そのときだった。
「出た……!」
詩織の手の中で、白い光の粒がふわりと浮かび上がった。
前に玉環を触った時と同じ光――ただ、少し小さい。
(やっぱり……! 本当に、私……異能を持ってるの?)
胸がドクンと跳ねた。けれど、すぐに疑問が湧く。
(でも……この力、いったい何?)
「お客様、こちらのリーフ、いかがですか?」
「えっ? あ、はい。とっても綺麗ですね。」
はっとして顔を上げ、何でもないふりをして答えた。
(しまった……!見とれてたら、店員さんに怪しまれるじゃない)
ちらりと店員をうかがうが、彼女は何も気づいていない様子。
――見えているのは、やっぱり自分だけ。
安心と同時に、どっと冷や汗が流れた。
「このリーフは今年の流行デザインで、特にお客様くらいの年代の方に人気なんです。お値段もお手頃ですよ。ちなみに、これは最後の一点なんです」
(……最後の一点、か)
詩織は苦笑した。
「お手頃」と言っても、彼女の財布には五元しか入っていない。
どんなに安くても、百円の翡翠なんてあるわけがない。
「ちょっと考えます」とでも言おうとした瞬間――
横から伸びてきた真っ赤なマニキュアの手が、すっと玉をさらっていった。
「このリーフ、私が買うわ」
艶っぽい声。けれどその態度はあくまで横柄だった。
突然奪われて唖然とする詩織の耳に、さらに挑発的な声が刺さる。
詩織が手から葉っぱを取られたことに反応する前に、その葉っぱを奪った女性がさらに言った。 「……あら、夏目詩織じゃない?『万年ガリ勉』のお嬢さんがジュエリーショップに来るなんて珍しいわねぇ。入院してたんじゃなかった?ストレスで学校に行きたくないとか?」
……ああ、この声。間違いない。
詩織は額に手を当てた。
何年経っても、彼女――鈴木紅葉(すずき こうよ)の顔と声だけは絶対に忘れない。
高校三年間、どこに行っても紅葉は彼女の前に現れ、冷たい皮肉を浴びせてきた。
詩織にはわからなかった。自分のような極めて平凡な学生がなぜこんな大物の注目を集め、会うたびに皮肉を言われるのか。「万年ガリ勉」というあだ名を流行らせた張本人も、もちろん玉だ。
(はあ……またこのパターンね)詩織は深く息を吸い、笑顔を作った。
「紅葉、ジュエリーを買いに来たの?」
――相手にしない。
彼女は裕福な家のお嬢様。私は普通の家庭の娘。それだけの違い。(ムキになるだけ損だわ。)
それに、あのリーフのペンダントは買うつもりもなかった。
ちょうどいい、これで堂々と店を出られる。
「そうよ、毎週末買いに来てるの。見て、この指輪もバングルも素敵でしょ?あなたには眺めるのが関の山ね」
紅葉は自慢げに腕を掲げ、指先をひらりと動かした。
「このリーフ、包んでちょうだい」
「えっと……」販売員は困ったように詩織の方を見た。
「構いません、彼女にどうぞ」
詩織は柔らかく微笑んで言った。(ああ、成長したな、私)
十七歳の頃の自分なら、たとえお金がなくても意地を張っていただろう。
紅葉にだけは負けたくない――そう思って、無理にでも買っていたはずだ。
紅葉を見ると、まるで昔の自分を見ているようで少し笑えてくる。(結局、気持ちの問題なのね)
今の彼女からすれば、紅葉の挑発なんて子供のわがままにしか見えなかった。
「な、なによ……気に入らなかったの?」
紅葉が目を泳がせる。
(……あら、思ってた反応と違う?)
彼女は詩織が怒鳴り返すのを期待していたに違いない。
なのに詩織は落ち着いている。
「気に入ってるわよ。でも、あなたが欲しいなら、私は奪わないわ」詩織はくすりと笑って肩をすくめた。
――まったく、この紅音という子は。
どうやら本当に子どもっぽい性格らしい。
争えば争うほど燃えるタイプ。
だから逆にこうして譲ると、急に調子が狂うのだろう。
「じゃ、じゃあいいわよ! あんたがいらないって言うなら、私もいらない!あんたの残り物なんて、私が拾うと思う?」
紅葉は勢いづいたまま、顔を真っ赤にして言い放った。
販売員の女性はというと、目の前の光景にただただ困り果てている。
その時だった。
「何かあったのか?」
落ち着いた男性の声が背後から響く。
「社長」販売員がびくっと肩を震わせ、すぐに姿勢を正した。軽く会釈しながら、慌てて説明を口にする。
「い、いえ……特に問題はございません。ただ、お二人のお客様が少し玉石についてお話を……」
――「子供の喧嘩です」なんて言えるわけがない。
立川ジュエリーの販売員は皆、心得ている。
顧客は神様。そして、神様の前で余計なことを言うのはご法度。
それに、この男性はただの客ではない。
彼は「神様の上の存在」、つまり――販売員にとっては「神の親」とも言える人。
立川ジュエリーの最高責任者、彼女たちの“ボス”なのだ。