第3話:最後の決断
[氷月詩の視点]
「赤ちゃんのお父さんは、いらっしゃいますか?」
医師の質問が、静寂な診察室に響いた。
「お父さんなんて、いません」
力なく答える。
本当に、いない。
蓮は私が階段から落ちて血を流している時も、刹那の手の傷を心配していた。救急車が呼ばれている時も、私の嘘だと決めつけて電話を切った。
お父さんなんて、最初からいなかった。
妊娠が分かってから三ヶ月間、検診に付き添ってくれたことは一度もない。エコー写真を見せても、忙しいからと目も向けなかった。
赤ちゃんを失った今、これ以上傷つけられる理由なんてない。
七年間。
七年間、私は何をしていたんだろう。
「入院の手続きをお願いします」
医師から差し出された入院票を受け取る。
竜ヶ崎詩。
この名前も、もうすぐ変わる。
離婚しよう。
今度こそ、本当に。
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病院の廊下を、蓮が刹那を庇うように歩いてくる。刹那の手には大げさな包帯が巻かれていた。
「蓮くん、痛いの……」
「大丈夫、すぐに診てもらおう」
蓮の声は優しい。私には一度も向けられたことのない、優しさに満ちた声。
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[氷月詩の視点]
廊下でばったり出くわした。
蓮の顔が険しくなる。
「お前、ここまで追ってきたのか?刹那は手を怪我してるんだぞ」
追ってきた?
私が?
「詩さん、刹那に謝れ。それから、刹那の着替えと日用品を買ってこい。入院することになったんだ」
入院?
あの程度の傷で?
じゃあ——お腹の子供を失った私は、どうすればいい?
声にならない。
言葉が出てこない。
蓮は私の沈黙を無視して、刹那を気遣い続けている。
「痛みは大丈夫か?」
「うん……でも、蓮くんがいてくれるから」
思い出す。
一回目。結婚式の前日、刹那と一緒にいるところを目撃した時。
二回目。新婚旅行をキャンセルして、刹那のコンサートに行った時。
三回目。私の誕生日を忘れて、刹那の舞台を見に行った時。
四回目。妊娠を報告した日、刹那から電話がかかってきて、そのまま出かけていった時。
そして五回目。
今日。
「チャンスは五回まで」
私たちの約束。
蓮が私を裏切るたびに、私は許してきた。でも、五回目で終わりだと決めていた。
五回目は、もう来た。
何も言わずに、その場を去ろうとする。
「君、その手に持ってるのは……何だ?」
蓮の声が背中に刺さった。
入院票を握りしめた手が、震えている。
振り返ると、蓮の目が私の手に注がれていた。