伊藤家の奥様は息子を怒らせてしまうことを恐れ、薬を手に入れた相手に何度も確認していた。
――この薬を吸い込んだ者は記憶が曖昧になり、理性を失い、必ず欲望を吐き出さなければならない。さもなければ体を壊す。
そして事後、男はそれをただの夢――淫らな夢だったと錯覚する。
その言葉を信じ、彼女は薬を準備したのだ。昨日、病弱な長男と代理母になるはずの女を一室に閉じ込め、二人に薬を仕込んだ。
本来の目的はただひとつ。息子が死ぬ前に、伊藤家に子を残すため。
決して、息子の命を奪うつもりではなかった。
だが――。
その思いが頭をよぎった瞬間、彼女は突如として怒りに支配され、倒れている海斗の体を乱暴に放り出すと、ベッドに座る美月へと襲いかかった。
「小娘が……!一度でよかったのよ!海斗は病気なのを知っていたでしょう!どうして何度も何度も刺激したの!この痕だらけの体を見なさい!海斗を搾り尽くしたのね!そんなに飢えていたの!?」
美月怯えていたが、昨晩のことで、もう伊藤夫人を止めることができなくて、避けるしか出来なかった。
張り飛ばそうとした手は――しかし、最後の瞬間に空中で止まった。
美月の体に刻まれた痕跡が、まざまざと彼女の目に焼き付いたからだ。
何かに気づいたように、伊藤夫人は歯を食いしばり、睨みつけたまま手を引いた。「……今はまだ殺さないわ。お前の腹には、すでに私の息子の血が宿っているかもしれないから。覚えておきなさい、代理母になると署名したのはお前。伊藤家はすでに一億円を払っている。しかもお前のせいで息子は予定より早く逝ってしまった。今日から一歩たりとも伊藤家を出られない。妊娠が確認され、子を産むまで――決し」
その言葉に、美月は愕然と顔を上げた。
「ち、違います……!私は佐々木遥じゃありません。あの契約を結んだのも、お金を受け取ったのも姉です!私は姉に騙されて、身代わりとしてここに送られただけ!私は被害者なんです!ここに閉じ込めるなんて許されません。子供なんて産むつもりもない!」
昨日伊藤海斗とそんなことをやったかもしれないが、伊藤海斗、お悪い人でもないかも、しかし、ここで居てはいられない。
必死の訴えも、伊藤夫人の冷ややかな瞳には届かない。
「……佐々木遥。今さら取り繕っても無駄よ。もし子を宿していれば、息子を奪ったことは水に流してやる。けれど、ひと月後の検査で妊娠していなければ――必ず生き地獄を味あわせてやる」
吐き捨てるように言い残すと、伊藤夫人は召使いと護衛を呼び、海斗の亡骸を運び去った。
部屋には、美月一人。
美月は慌てた。
彼女は震える体を引きずり、出口へと向かう。だが扉の前で、二人の女中に遮られた。
「佐々木さん、伊藤家は広い上に護衛と使用人が至るところにいます。監視カメラもある。逃げるなんて不可能ですよ。……これからは私たちが、あなたを住まいへご案内します」
力なく抵抗することもできず、美月は連れ去られていく。
一方その頃――伊藤家の別邸。
冷たい色調の寝室で、一人の男が目を覚ました。
眉を寄せ、最初に感じたのは――
「身体の異変」。