美月は唇を噛みしめ、メイドに連れられて伊藤家の本邸リビングへと足を踏み入れた。
入った瞬間、彼女の視線に飛び込んできたのは二人の姿。ひとりは伊藤夫人。そしてもうひとりは──つい先ほど、彼女がぶつかってしまったあの冷たい青年だった。
青年は彼女に一瞥もくれず、ソファに深く腰掛けている。誰も寄せつけぬ高圧的な気配、全身から凍りつくような冷気が滲み出していた。
美月は思わず息を詰め、慌てて視線を逸らす。
隣に座る伊藤夫人の顔には、不機嫌さと苛立ちがはっきりと浮かんでいた。彼女は美月を見るなり、冷たく言い放つ。「こっちへいらっしゃい。医者に診てもらいなさい。もう一週間経ったのだから、体に問題がないか確認させるわ」
その言葉に合わせるように、部屋の隅から白衣をまとった女医が静かに現れた。
拒否したい。身体を触られるなんて御免だ。けれど美月には、拒否する権利などなかった。彼女が首を振ろうとしたその瞬間──二人の大柄なメイドが近づき、強引に彼女をソファに押し込んだ。
女医は黙ったまま、手際よく器具を取り出し、診察を始める。
美月は必死に抵抗する気力を抑え込み、顔を上げて伊藤夫人を見た。
「……奥様、お願いです。私は本当に佐々木遥じゃありません!」
必死の訴えが漏れる。
「あなた方の力なら、すぐに調べられるはずです。私は佐々木遥の妹なんです。お金を受け取ったのは彼女で、私が無理やりここへ押し込まれただけ……!だから、私を解放してください。このまま閉じ込め続けるのは間違ってます!」
しかし、伊藤夫人の顔は冷たいまま微動だにしない。
「人違いだろうと関係ないわ。金はもう渡した。それに──我が子の手が触れたのは、他でもない「あなただ」。あの子を間接的に死へ追いやったのも、結局はあなたよ……解放してもらえると思っているの?」
「……っ!」
その言葉に、美月の顔から血の気が引いた。
これまで、真実を告げればきっと分かってもらえると思っていた。自分は被害者であり、無実の存在だと──。
自分は被害者であり、無実の存在だと──。
けれど現実は違った。
たとえ自分が替え玉だと認められたとしても、決して逃げられない。
なぜなら、彼女は確かに伊藤海斗の部屋で純潔を奪われ、そしてその日──彼は彼女の隣で死を迎えたからだ。
理解した瞬間、美月の身体は震えだした。
未来が、光ひとつ差さぬ闇に閉ざされていく。
診察を終えた女医とメイドが手を離す。女医は伊藤夫人のもとへ歩み寄り、恭しく報告した。
「奥様、彼女の身体はとても健康で問題はありません。ただ……妊娠しているかどうかは、もう少し時間を置かねば判断できません」
「そう。なら、下がりなさい。これからは毎週欠かさず診察させること。もし妊娠が分かったら──即座に報告するのよ」
「は、はい!」
女医は深々と頭を下げ、その場を後にした。
残された伊藤夫人は、鋭い眼差しで美月を射抜く。
「覚えておきなさい。妊娠し、子を産めば……お前を解放してやる「かもしれない」。だが逆なら──待つのは、生き地獄よ」
突きつけられた言葉は、彼女にとって死刑宣告に等しかった。
伊藤夫人はそれ以上何も言わず、手を振って合図する。メイドたちが再び近づき、美月を連れ出す。
──この家では誰にも頼れない。
彼女は黙り込み、俯いたまま連れて行かれるしかなかった。