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Capítulo 2: 1-ルカの目覚め

 はっと、目が覚めた。

 セレスティア魔術学園の寮、その自室。

 真夜中の暗闇の中で、ぼくは目を覚ました。

 どくどく、と、うるさく心臓が鳴っている。冬の初めにも関わらず、全身をじっとりとした汗がまとわりついている。

 何か、長い長い夢を見ていたような、そんな気がした。

「み、水……」

 からからに乾いた喉を潤そうと、ベッドから身を起こす。テーブルに、水差しが置いてあるはずだ。

 カーテン越しの微かな月明かりの他、光の何もない暗闇の中。

 自分の手さえも見えないような、真夜中に包まれたその瞬間に、ぼくはなぜか泣きたいような気持ちになった。

 どうしてだろう。

 いるはずのない人の存在を、はっきりと感じた。

「……エメ?」

 呼びかけても、返事はない。

 当然だ。

 エメ・アルジェライトが死んでから、もう、三年以上の月日が流れている。

 †

「ではここのページを、アルジェンライトさん。……アルジェンライトさん?」

「…………」

 窓際の席で、ぼうっと外を眺めていた。

「こほん。ルカ・アルジェライトさん?」

「っ、は、はいっ!」

 教壇に立つ先生の鋭い声で、ぼくはようやく、目の前の授業に焦点を合わせた。

 しまった、と慌てて教科書をめくる。

 ただでさえ、万年赤点のぼくである。授業くらいは真面目に受けなければ、進級は絶望的だ。

 右から左に通り抜けていた先生の呼びかけをなんとか思い出して、ぼくは書いてあることを読み上げる。

「ええと、“つまるところ魔術とは、一般に思われているような万能の力ではない。理屈のある術である。”」

 魔術基礎理論、その基礎も基礎。

 一年生のときに習ったような内容をわさわわざぼくに読ませているのは、決して偶然なんかじゃない。

 言外に、『お前の能力はこの程度だ』と突きつけられているに違いなかった。

「“万物は魔力でできている”」

 魔力。

 人の体の中にも、大気の内にも、今こうして座る椅子や眺めている黒板にも宿る、世界の最小単位。

 その魔力を操る術こそが、魔術なのだ。

「“魔力に色や形や温度を与えている根源こそ、星の記憶たる【星録《レコード》】であり、そこからひと雫を借り受ける引用句こそが【コード】、この【コード】を扱うことが即ち魔術、魔力を扱う術なのだ”——“ええと、」

「はい、そこまででよろしい」

 先生に遮られ、ぼくは読み上げかけた言葉を飲み込む。

「では、みなさんには、魔術で【星録】から炎のコードを引用し、これを燃やしてもらいます——【育まれるもの/乾いたもの/地より/太陽より/水より/在れ】」

 先生が唱えて指先を振る。

 すると、虚空から手のひら大の木片が生まれて、ばらばらと教卓の上へと落ちた。

 これが魔術——【星録】、この世界の全てをかたち作る、大いなる星の目には見えない記憶から、ごくごく一部を借り受ける術。

「一人一つ、取りにきなさい!」

 呼ばれ、ぼくも周りの生徒も立ち上がった。

 教室は、アリジゴクの巣のようなすり鉢状になっている。ぼくは中段くらいに座っていたので、少し階段を下りる必要がある。

 前の人が先に行くのを待って、通路の方に出ようとして——ドン、と無理やり押し除けられた。

「わ、っ⁉︎」

 あやうく転がり落ちそうになり、ぼくは横の机をぐっと掴んで踏みとどまる。

 何ごとかと振り返ってみれば、そこにはニヤニヤと笑いを浮かべるクラスメイトがいた。

「あら失礼、平民さん。あんまりにも存在が希薄でよく見えなかったもので」

「……はあ」

 いかにも貴族らしい金髪の彼女へと、ぼくは気のない返事をする。

 普段は多少凹みもする嫌味だったけれど、他のことに気を取られていた今のぼくには、ただの雑音でしかなかったのだ。

 それが気に食わなかったらしい。

 キッとこちらを睨んで、

「ふん。先生のお話も碌に聞かないで。さぞ、魔術がお上手なのでしょうね? 今からの実技が見ものですわ」

 そう捲し立てるなり、ぼくを抜かしてさっさと木片を取りに行った。

「……はあ」

 ぼくはもう一度呟くと、気を取り直して木片を貰いに向かう。

 ここは魔術学園で、魔術は貴族の習う術だ。

 そこに紛れ込む、平民のぼく。

 それも、豪商や学者の子供でさえない。名前のないような小さな村の田舎者だ。

 あんまりにも場違いだ。間違いない。

 これで、ぼくが血に見合わぬとんでもない魔術の大天才……というならば理不尽に怒りも湧きようが、生憎と、ぼくの成績はとんでもなく悪いのである。毎年度末、進級ギリギリのラインを這いずっている。

 そりゃ、一般貴族のご令嬢さんからすればムカつくよな、というような感想しか湧かない。

 気を取り直して、木片を受け取る。

 指示されたとおりに炎の魔術を使うべく、ぼくはぐっと集中をした。

「ええと……【熱/光/猛々しき/形なき/在れ】」

 コード、引用句を唱える。

 大事なのは、星録をの存在を意識すること。

 星録《レコード》。星の記憶。

 髪の毛の一本から水の一滴、あるいは温度や色彩や感触に至るまで、この星が覚えていてくれているからこそ、ぼくらは存在できている。

 言葉なき言葉、文字なき文字で刻まれた星録から、ほんのささやかな断片を引用して、本来ここにはないものを出現させる——というのが、魔術なのである。

 平民には馴染みがないために、御伽噺なんかだと『魔術で水を凍らせた』とか『魔術で傷を治した』とかみたいな話があったりするけれど、実のところ、そんなに万能な術ではない。

 氷を引用して、生み出すことはできる。でも、水を凍らせることはできない。星録そのものは書き換えられないからだ。

 だから、傷を癒すこともできない。

 だから、死人を蘇らせることもできない。

 納得いかないルールだけれど、納得するしかない。

 ぼくはどうしてこんなところで魔術をやっているのかな、という気持ちになる。エメの居場所を奪ってまで、こんな。

 炎は生まれない。

 魔術での引用は、基本的に、形あるものの方がやりやすいとされている。

 手に掴める方が想像しやすいからで、土塊よりも水の方が、水よりも炎の方がより引用をやりにくい。

 とはいっても、ぼくらが引用を指示されたのは、地獄の業火でも岩をも溶かす青炎でもない。ただ、乾いたちびっちゃい木片を燃やすための火種だ。

 児戯とまでは言わないけれど、そう難しい課題ではないはずなのに。

 焦げ臭い。

 どうやら、周りはどんどん魔術を成功させているようだった。

 失敗している子も、木片を軽く焦がすところまではいっている。蝋燭ほどの火さえ引用できていないのは、この教室にぼくだけだった。

 できた人から昼休みに、なんて先生が言うものだから、どんどん教室から人が減っていく。

「あら、アルジェンライトさん、居残りなんて熱心ですこと」

 例の嫌味な貴族令嬢ちゃんも、そう言い残すなりさっさとお昼ご飯を食べに去っていった。

 どうでもいい話だけど、貴族の通う学園なので、出されるランチは無駄に豪華である。多分、一日でぼくのいた村が一年に食べるくらいの肉と砂糖と塩を消費している。あんまり舌に合わない。

 全体的に、ソースの味が強いのだ。かつ、味の要素が多い。

 凝っている、ということなんだろうけど、黒パンと豆スープで育ったぼくには、ちょっと疲れる味と色と名前をしている。兎肉のナントカオレンジソースとか、白身魚のカントカハーブを添えてとか。

 ……そんな余計なことを考えているものだから、当然魔術は成功しない。無駄にお腹が空いてきた。

 だんだんと、先生の目が厳しくなっていくのを感じる。

 まずい。とてもまずい。

 もしも成績不振で退学になれば、ぼくは村に逆戻りだ。みなしごで親のないぼくにとって、それはあまり愉快な道筋とは言えないものである。

 落ちこぼれでもいい。

 首の皮一枚だろうとも、卒業できたらセレスティア公認魔術師だ。

 その看板を掲げて、何でも魔術屋さんでも始めれば、どこへ行こうと食いっぱぐれることはないだろう。貴族は開業したりしないので、野良魔術師は希少なのだ。

「……【熱/光/猛々しき/形なき/在れ】!」

 気合を込めて唱えてみたけれど、星録は炎を貸し出してくれなかった。なんていけず。

「先生。我も完了しました」

「ではハヤテさん、昼休憩にしてよろしいですよ」

「了解です」

 うまく火がつかなくて苦戦していたらしい最後の一人もとうとう立ち上がり、このままでは完全に先生とぼくのマンツーマンが始まってしまう。

 気まずいどころの騒ぎではない。先生の昼休みも潰していそうなのが地味に辛い。

「燃えてくれよ……」

 コードですらない恨み言を漏らし——ぼくは、驚きのあまり硬直した。

「では、残りはアルジェンライトさんだけですね。……おや?」

 こちらを向いた先生が、訝しげに片眉を上げる。

 ぼくの机の上には、すっかり燃え尽きた木片が、消し炭になって転がっていた。

「いつの間に……ずいぶん火力を出したようですね。ふむ、まあいいでしょう。では、アルジェンライトさんも昼休憩にしなさい」

「は、はいっ」

 ぼくは慌ててがたがたと立ち上がると、一礼して教室を後にした。

 なにしろ、お腹が空いている。

 食べ物のことばかり考えていたから、うっかり見逃しただけだろう。食堂に向かいながら、ぼくはそう結論つけた。

 魔術は星録からの引用術だ。

 炎を引用しなければ、木片を燃やすことはできないのだ。

 だから、まさか、木片が火もなく消し炭に変わることなんて、あり得ない話でしかない。あれは、ただの錯覚だ。

 食堂につく。

 受け取ったお盆に並ぶお皿の上には、昼から食べるには重そうな分厚さの肉塊がどんと鎮座していた。それにサラダ、スープ、デザートにはスミレの砂糖漬けまで。

「……スミレ」

 青紫を白い衣で固めたそれを、ぼくはひょいと摘んで口に入れる。

 甘い。

 噛むと、ふわりと香りが抜けた。

 懐かしい香りだった。

 †

 もう、三年以上も前。

 エメがセレスティアに合格して、少し経った頃。

 その日は、地面いっぱいに早スミレの花が咲く、よく晴れた日だった。

 ぼくとエメは、王都に行く前にお気に入りの場所をひと通り訪れておこう、と、村を取り囲む森の中へピクニックをしに来ていた。

 鬱蒼としたところだけど、生まれ育った庭でもある。

 まだ冷たい川で水遊びをして、お弁当のパンを食べて、ぼくらは楽しい一日を過ごしていたのだ。

 蝕獣《クラック》が姿を現す、その瞬間までは。

 星録を、世界を蝕むその獣は、うぞうぞとした闇を塗り固めた姿をしていた。がっしりとした狼のような形状だけど、脚は七本に赤い目が四対あって、背中からはどろどろした触手が何本も何本も生えていた。

 地獄から抜け出てきたような、生理的嫌悪を催す見た目。

「ひっ……!」

 喉の奥から悲鳴を漏らしながら、ぼくは後ずさっていた。

 なにも、逃げようとしたわけではない。ただ、恐ろしいものがいて、それに驚いて無意識のうちにほんの数歩を下がっただけ。

 それは、ぼくと片割れを致命的に引き裂く数歩だった。

「Grrrrrooooo!」

 蝕獣が吠え、飛びかかってくる。

 闇がぼくらを貫こうとする。

「ルカちゃん!」

 エメが、ぼくよりほんの数歩前の位置にいた妹が、叫びながらぼくを庇った。

 ぼくのそれより長い水色の髪が、ぱっと散った。細いのに器用な手が、弧を描いた。柔らかくて暖かい胴が、斜めにズレた。いつもぼくの名前を呼ぶ声は、二度と発されることがなかった。

 ただ、どうやら咄嗟に編んだのだろう魔術によって、蝕獣《クラック》のほうもバラバラになった。

 それが終わるまで、ほんの数秒もかからなかっただろう。あんまりにも、あんまりにもあっという間だった。

「…………え、め?」

 そうして。

 エメ・アルジェンライトは死んだのだ。

 ぼくの目の前で、死んだのだ。

 ぼくを庇って、死んだのだ。


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