Capítulo 1: 「姫になる気はゼロです」
返事を待つあいだ、アイズリンの母は視線を外さず、厳しい面持ちを崩さなかった。だがアイズリンに応じるつもりはない。年長者相手には沈黙で持久戦を仕掛ける――母の根負けを狙う、きわめて直球の戦術である。視線を落とすと、テーブルの端に新聞が置かれているのが見えた。だが、こっそり読むには角度が悪い。
「アイズリン、待っているのよ」母は促した。「USGに強く反対する理由は何？ そもそも、どうして“プリンセスになる”ことがいけないの？」
アイズリンが答え渋る理由のひとつは、実のところ自分でもはっきり分かっていないからだった。プリンセスそのものに恨みがあるわけではない。大好きな叔母カイア――公にはアリアノーラ王女として知られる――の誕生日プレゼントはいつだって宝物だった。精巧なドラゴンとエルフが飾られた紅玉の指輪、金色の笏。理屈の上では、プリンセスに反対する理由などない。ただ、自分がなりたいとはまったく思えないのだ。
しかし、そうしたはぐらかしは母には通用しない。アイズリンが掌の皺を見つめて時間をやり過ごしていると、救いは思わぬところからやって来た。セラフが帰ってきたのだ。
玄関をくぐる姉の姿を見た瞬間、アイズリンの胸にはいつもの小さな嫉妬がさっと差した。世の“恐ろしい魔女”のなかには、陰鬱な衣装で威圧感を漂わせる者もいれば、流れる髪と危うい紅い唇でただただ美しい者もいる。
セラフは、なぜかその両方を兼ね備えていた。黒のドレスは気品があり、さりげなく肌を見せる。細やかな骨格の美しい顔は、闇色のカールした髪に縁取られている。蒼白な肌と黒衣の強いコントラストにもかかわらず、病的ではなくむしろ幽玄。セラフが魅力的であることは、立ち居振る舞いのすべてに滲み出ていた。
彼女の後ろには若い騎士が従っている。印象的な金髪に、目元を隠す長い前髪。脇に兜を抱え、磨き上げられた鎧をまとったまま、完全に魅了された者特有の、呆けた面持ちでアイズリンの家へ入ってきた。
騎士を連れたまま自室へ向かおうとしたところで、母が立ちはだかった。「セラフ、規則は分かっているわね。ベッドルームに男子は入れません」
母の注意が姉へ向いた隙を、アイズリンは見逃さない。新聞をさっと手繰り寄せ、少し角度を変えて置き直す。これで、退屈が襲ってきても目の端で見出しを拾える。母に“話を聞いていない”と悟られずに。
「お母さま、必要なんです！」セラフは声を張った。「学校の課題なの。今は“誘惑”の単元を勉強していて――」説明のしどろもどろを足踏みで強調し、頬を上気させる。
一瞬ためらったのち、母の頬にも同じ色が差した。「まあ、ごめんなさい。学業の妨げにするつもりはなかったのよ。行ってらっしゃい」
勝ち誇った笑みを浮かべ、なおも魅了されたままの騎士を引き連れて、セラフは廊下の奥へ消えていく。職務に戻るように、母の燃えるような視線がふたたびアイズリンへ向いたので、彼女は慌てて目を逸らした。
「いいこと、あなたは事の重大さを分かっていないの」母の口調に、アイズリンは思わず目を回した。USG行きを拒んだと告げたその日から、耳にタコができるほど聞かされてきた前置きだ。「今は“平民として生きる”なんて新鮮で素敵に聞こえるかもしれないけれど、子どもを持ち、真の責任を負う未来を想像してみなさい」
どうせしばらくは続く、と腹を括り、アイズリンは新聞の見出しを拾い読みした。
「雲の上に取り残された巨人一家――豆の木畑、蝗害で壊滅」
「アルゼドリアン王子十八歳祝賀 舞踏会、清らなる乙女を一同ご招待」
そして彼女が特に惹かれた記事――「西クレストフォール、また一つ“めでたしめでたし”」。アイズリンは本文を読み始める。
昔々、コラレストアという心優しい若き王子がいた。彼には、その音を耳にした者が皆、真実しか語れなくなる魔法の剣があった。ある日コラレストアは、自分の名を呼ぶ小川に出会う。
「コラレストア！」
「コラレス――」
「アイズリン、聞いているの？」
はっと顔を上げる。母の目が疑い深く細められていた。
「聞いてるよ」アイズリンは答え、心の中で、記者が“コラレストア”の綴りに苦労しただろうことに一瞬だけ同情した。
母は声を落として懇願した。「それなら教えて。プリンセスになることの何が、そんなに嫌なの？」
アイズリンは深く溜息をついた。「分からない。ただ、すごく虚しい気がするの。私、消防士にも、アーティストにも、動物愛護の活動家にもなれる。なのにあなたはプリンセスになれって言う。『いつまでも幸せに暮らしました』なんて生き方はしたくない。おとぎ話を演じて、王子様に助けられて、結婚して、それで終わり。私、何か“する”側でいたい。世界を少しでも良くしたいの」
母は鼻をしかめた。「馬鹿なことを言わないの、アイズリン。『動物愛護活動家』なんて肩書きはこの国には存在しません。環境に関する要件は、国王陛下と王妃陛下が監督しているの。素敵な王子と結婚すれば、あなたがそういうことを動かせるのよ。実際、ゲリオン・ドラゴンを守る包括法は、つい先ごろジェイダリアン王が御自ら裁可なさったばかりでしょう」
「でも――」
「言い訳はもうたくさん」母はあからさまに苛立って言い放つ。「あなたがプリンセスになることの何が問題なのか、私には分からない。けれど、いつまでも入学審査会は待ってくれないのよ。決定されてしまう前に、自分の気持ちを整理して、将来どうしたいのかをはっきりさせなさい」
唐突な剣幕に、アイズリンは言葉を失った。なぜ母は自分を理解してくれないのか――いつもの問いを胸の内に持ち出すことすらしなかった。
おかしいのは私なのだろうか。 プリンセスになるのも、案外ひどくないのかもしれない。母が自分の口調に気づいて和らげ、謝り始めるのを聞きながら、アイズリンは思った。南グリメリア大学（USG）に入ることも、考え直すべきだろう。今の混乱を整理してくれる、偏りのない第三者に話を聞く必要がある。
「……お母さんもお父さんも、私にうまくやってほしいと本気で思ってくれてるのは分かってる。でも、私がそれに向いてるのか、好きになれるのかすら分からないの！」吐き出すように言い終え、アイズリンはアリスの隣に腰を下ろした。彼は住宅関係の書類の山に埋もれている。「どうしたらいいと思う？」
「それは僕には答えられないな」アリスは書類から目を離さずに言った。「自分の人生で本当に何をしたいか――それは自分で自分に問うしかない。君は本当に“平民”として生きたいのか？」
「うん……いや……分からない」アイズリンは情けない結論を口にする。「現実的に考えなきゃいけないのは分かってる。第一志望じゃないにしても、プリンセスよりは平民の方がまだマシだと思う。でも、それって単に親への反抗心なのかもしれない。本当のところが分からないの」
ついに書類を置いたアリスは、アイズリンを見上げた。「確かに分かっていることは？ 何が“ある”？」
アイズリンはしばし考え、やがて言った。「悪事には加担したくないということだけは確か。私はずっとセラフの影の中で生きてきた。何をしても『いいけど、セラフの方が上手だったね』って言われるようなことは、絶対にしたくない。それ以外は……正直、分からない」
アリスは肩をすくめた。「言えるのはそこまでかな。決めるのは僕じゃない、君だ。将来がかかってる」ふいに声が明るくなる。「そうだ、聞いてくれよ。祖父母が僕の大学資金として積み立ててくれていた額、実は具体的には知らされてなかったんだ。で、奨学金が取れたから、授業料を払わなくてよくなった分は生活費に回していいってことになってね。車を買うか悩んだけど、結局、すごくいい剣を買うことにした。最高だろ？」
「……よかったね」アイズリンは熱のない声で答え、なんとか自分の話題へ戻した。「もし奨学金が取れてなかったらどうしてた？ 本当に王子になりたいからその道を選んだの？ それとも別のことをしてたと思う？」
「さあな」アリスは正直に言った。「僕が君なら合理的に考えるかな。プリンセス課程を卒業するまでには丸一年ある。対して平民学校は数か月しか開講しない。平民学校へ行って『向いてない』と分かったら、USGに出願するのは翌学年まで待たなきゃいけない。一方で、先にUSGに入ってから地域のカレッジに編入すると決めたなら、次の学期――一、二か月後には動ける。そこまで迷っているなら、まずUSGから始めるのが得策だと思う」
求めていた答えではない。だがアイズリンは、アリスの正直で現実的な助言に感謝すべきだと認めた。「ありがとう」彼女は小さく言った。
家に戻ると、父が台所に立っていた。オーブンの前で身をかがめ、焦げた卵の強烈な匂いを漂わせる、炎上中のフライパンと格闘している。滅多に料理をしない父は、戸棚からもうひとつ鍋を取り出し、水をいっぱいに張ると、アイズリンが戦慄の興味で見守る前でそのまま火に浴びせた。次の瞬間、熱い油が周囲へ飛び散り、台所じゅうのあちこちで小さな炎が新たに上がった。
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