第05話:冷たい決断
「隣の家を使って」
雫は彰に向かって、淡々と告げた。
「あそこは、お前の名義だろ」
彰の眉が寄る。隣の住宅街にある家は、雫の両親が妊娠祝いに用意してくれたものだった。普段なら雫が渋るはずの提案を、あっさりと口にしたことに違和感を覚えているのだろう。
「美夜さんも、そちらの方が落ち着けるでしょう」
雫の声に感情はなかった。
彰が作ったであろう海鮮粥の湯気が立ち上る。
「これ、食べろよ。体に良いから」
「いらない」
雫は彰の差し出した器を見もせずに答えた。
翌朝。
「奥様、旦那様と一条様は隣のお宅に移られました」
家政婦の報告に、雫は頷いただけだった。心は微塵も動かない。
昼過ぎ、彰から電話がかかってきた。
「美夜が暗いのを怖がってるから、今夜は帰れない」
「わかった」
「明日はお前の誕生日だろ?必ず帰るから」
「うん」
短い返事だけで通話を切る。彰の戸惑った声が最後に聞こえたが、もうどうでもよかった。
一人になったリビングで、雫は壁を見上げた。
そこには子供の写真やイラストが貼られている。彰の母が妊娠を願って飾ったものだった。赤ちゃんの笑顔、動物のキャラクター、優しい色合いの絵。
流産した今、離婚を決意した今、それらはもはや意味をなさない。
雫は脚立を持ってきて、壁の装飾を一枚一枚、無言で取り外していく。
「奥様、何を……」
心配そうに声をかける家政婦に、雫は静かに答えた。
「もう、いいの」
取り外した全ての絵をゴミ袋に詰める。
「これ、処分してください」
家政婦は困惑した表情を浮かべたが、雫の決意を感じ取ったのか、黙って袋を受け取った。
夕方、雫は携帯を手に取った。
「橘(たちばな)先生ですか?明日、家に来ていただけますか」
神凪家の顧問弁護士である橘先生の声が電話越しに響く。
「承知いたしました。どのような件でしょうか?」
「離婚の件です。財産分与は一切求めません」
「本当に……何も主張されないということでよろしいですね?」
「はい。何もいりません」
雫の即答に、橘先生は少し驚いたようだった。
「しばらく夫には内密にお願いします」
「承知いたしました」
翌日の夕方、橘先生が書類を持参してやってきた。離婚協議書の準備は完了している。
「それでは、これで失礼いたします」
橘先生が帰ろうとしたまさにその時、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
彰の声が響く。神凪家の会社の案件を担当する弁護士が自宅にいることに、彰は疑問を抱いているようだった。
「橘先生、何の用で?」
「いえ、ちょっとした書類の件で」
橘先生は慌てたように答えて去っていく。
彰はリビングに入ってくると、楽しそうに話し始めた。
「美夜と映画を見たんだ。久しぶりに笑ったよ。あいつ、昔と変わらず面白いことばかり言って」
彰の顔に浮かぶ笑顔。
あんな笑顔、最後に雫に向けて見せたのは、妊娠を伝えたあの日。それ以来、彼女には、一度も向けられたことがなかった。
雫は静かに彰を見つめていた。
「明日、話があるの」