国立美術館は、巨大な嘘の城だった。
大理石の床は冷たく輝き、壁に掛けられた佐々木隼人の絵画は、どれもこれも希望と幸福に満ち溢れている。来場者たちは皆、その偽りの光に魅了され、感嘆の息を漏らしていた。彼らから発せられる純粋な《尊敬》と《感動》のオーラが、この城の壁をさらに分厚く塗り固めていく。
「……すごいな」 人混みの中で、僕は思わず呟いた。これだけの善意の感情に満ちた場所で、一つの嘘を暴き出す。それは、太陽の中心で一本の黒い糸を探すような、無謀な試みにも思えた。
「気圧されないで、神木くん」 隣を歩く月読さんが、静かに言った。彼女は今日の日のために用意したのだろう、上品な黒いドレスを身にまとっている。その姿は、まるでこれから戦場へ向かう女王のようだ。 「どんなに光が強くても、影は必ず存在するわ。私たちは、その影を見つけ出すだけ」
僕たちは、展示ルートに従って歩きながら、神経を研ぎ澄ませる。僕の目には、どの絵からも巨匠の《自負心》や《創作の喜び》といった、きらびやかな感情が見える。だが、僕たちが探しているのは、そんな表面的な光ではない。もっと深く、暗く、澱んだ何かだ。
「……おかしいな」 展示の後半に差し掛かった時、僕は足を止めた。 「彼の初期の作品になるほど、絵から発せられる感情が希薄になっていく。まるで、他人の絵を眺めているみたいだ」 「それはそうよ」と月読さんが囁く。「そこは、まだ彼が“彼自身”だった時代だから。彼が本当の意味で『佐々木隼人』になったのは、如月しおりの光を盗んでからなのだから」
展示ルートの終点には、今回の回顧展の目玉である『特別展示室』が設けられていた。そこには、彼のプライベートなアトリエを再現した空間や、愛用の品々が並べられている。警備員の数も、明らかに他の場所より多い。
「きっと、この中ね」
僕たちは他の鑑賞客に紛れて、その部屋へと足を踏み入れた。再現されたアトリエには、絵の具の匂いまでが漂っている。そして、ガラスケースの中に、数々のスケッチブックや手紙が展示されていた。
僕は目を閉じ、意識を集中させる。この部屋に渦巻く、膨大な量の情報と感情の中から、たった一つの異質なシグナルを探し出すために。
あった。
部屋の隅、厳重に施錠されたアンティークの机の、一番下の引き出し。そこから、他のどの展示品とも違う、奇妙なオーラが漏れ出ている。それは、強烈な《執着》と、その奥に固く封じ込められた、震えるような《恐怖》だった。
「月読さん、あそこだ」 僕は視線で合図を送る。月読さんは静かに頷くと、すっと僕の前から姿を消した。
数秒後、部屋の反対側で、小さな悲鳴が上がった。 「きゃっ! すみません、気分が悪くて……!」 月読さんが、苦しげな様子で壁にもたれかかっている。警備員たちの注意が、一斉にそちらへ向いた。
チャンスは、今しかない!
僕は人垣をすり抜け、例の机へと駆け寄った。鍵のかかった引き出しに、そっと指を触れる。 ――『記憶の残滓(メモリー・トレース)』!
【強力な思念により、情報がロックされています。感情ポイント500を消費し、強制的に解除します】
躊躇はなかった。僕が承認すると、脳内に膨大な記憶の奔流が叩きつけられた!
若き日の佐々木隼人。彼は、如月しおりの圧倒的な才能に、誰よりも魅了され、そして誰よりも深く嫉妬していた。彼は彼女に近づき、友人のふりをしながら、彼女の画法、アイデア、その魂の全てを盗み見ていた。
そして、コンクール前夜。彼は、彼女が心血を注いで描いた『奈落の少女』の原型となる作品を見て、悟ってしまった。自分では、一生かかっても彼女には敵わない、と。
その夜、彼は行動を起こした。彼女のアトリエに忍び込み、彼女が最も大切にしていたスケッチブック――彼女の才能の源泉そのものであるスケッチブックを盗み出したのだ。
「これさえなければ……これさえなければ、僕が一番になれる!」
彼の心に渦巻くのは、ドス黒い《嫉妬》と、自分の才能の限界に対する《絶望》。そして、全てを盗み終えた後の、罪悪感を塗りつぶすための、歪んだ《高揚感》だった!
「……見つけた」
現実に戻った僕の手には、確かにその記憶の手触りが残っていた。証拠は、この引き出しの中にある。如月しおりの魂が封じ込められた、あのスケッチブックが。
僕が顔を上げると、騒ぎが収まったのか、警備員たちが持ち場に戻りつつあった。そして、その警備員たちの向こう側。
穏やかな笑みを浮かべた、佐々木隼人本人が、僕のことを見つめて立っていた。
彼の目は、笑っていなかった。