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Capítulo 2: スライムとの邂逅

朝。石畳に冷たい影が伸びる頃、俺は冒険者ギルドの扉の前に立っていた。

手元に残ったのは、わずかな銀貨。昨日の光景は、まだ耳の奥で生々しく反響している。

——バグ。

——F。

——不要。

深呼吸。扉を押す。酒と汗と油の匂いが押し寄せた。

中は朝から騒がしい。木卓を囲む冒険者たち、掲示板に群がる影、樽の蓋を足で蹴って笑う声。

俺は受付へ向かい、ジョブカードを差し出す。

「新規登録をお願いします」

金髪の受付嬢が笑顔で受け取る。だが次の瞬間、その笑顔が凍った。

「……テイマー。しかも、Fランク」

声が、思いのほか大きかった。

食堂の笑いがすうっと引き、代わりに別の種類の笑いが立ち上がる。

「おいおい聞いたか? 昨夜の“バグ王子”がご来店だとよ」

「王女様にバグ扱いされた男がギルドに来るとか、お笑いだな!」

笑いが輪を作り、輪が檻になる。

受付嬢の冷えた視線に、昨日のリリアーナの無関心が重なった。

父の声が蘇る——「不要だ」。

心臓が氷の手で掴まれたように凍りつく。

「規約により、Fランクは依頼の受注ができません。……雑用も、です」

「雑用も、です」——その言葉で心臓が沈む。

父に認められるために必死で努力した日々も、リリアーナの手を離さなかった昨日も、すべて無意味だったのか。

俺は何を守ろうとしていた? 積み上げたすべてが最初から不要だったと証明されたのか。

あの夜会、あの父の言葉……全部が一度に蘇り、心が千切れそうになる。

カードを受け取りかけた時、横から太い腕が肩を叩いた。

「おう坊ちゃん、皿洗いくらいなら俺の私物で雇ってやってもいいぜ?」

「死体運びもあるぞ。お貴族様の手、汚してみるか?」

笑い声。肩に置かれた掌が、ひどく重い。

振り払うほどの力も、言い返す言葉も出ない。頭の中に響くのはただ一言——“不要”。

受付嬢が小さく咳払いをした。業務のための、冷たく正しい音。

「お引き取りください」

その言葉は、刃ではなく、無だった。

「……せめて、嘆きの森への行き方を教えてくれないか」

一瞬、空気が止まる。

次の瞬間——爆笑。

「ははっ!聞いたか? Fランクが森に行くだと!」

「自殺志願かよ! 魔物の餌になりに行くのか!」

「どうせスライムにすら殺されるぜ!」

笑いが渦を巻く中、ひとりの男が面白半分で肩を叩いてきた。

「いいぜ、教えてやるよ。街道を外れて北へ進め。三日も歩けば勝手に“嘆き”が聞こえてくる」

周囲がまたどっと笑う。

「ご丁寧に教えてやるなんて優しいな!」

「帰って来れたら奇跡だ!」

胃が焼けるような屈辱に震えながらも、その言葉を胸に刻むしかなかった。

笑い声と侮辱に塗れた道標——それでも今の俺には、それしかなかった。

爆笑とともに、地図を模した紙切れが投げ渡された。

嘲笑に塗れた案内。それでも、俺はそれを拾った。

——ここで終わるくらいなら、笑いものになってでも進むしかない。

街を外れた瞬間から、空気は湿り、温度は沈む。

嘆きの森。神の監視が薄い土地。噂と危険と、迷信の塊。

鳥も虫も鳴かない。沈黙が耳鳴りに変わる。ぬかるみに沈む足音だけがやけに大きく響き、枝の影が人影に見える。

背後に誰かがついてきているような錯覚が途切れず纏わりついた。

「……行くぞ」

独り言のように吐き、茂みを押し分ける。

枝は容赦なく頬を引っかき、泥は足を絡め取った。

どれくらい歩いたのか。額を汗が流れ、息が荒くなった頃——

ガサッ。

低い唸り。草の向こうで黄の双眸が灯る。

獣型の魔物。黒い毛並み、露出した牙。距離は十歩。

「……クソ」

木剣を構える。だが、影は矢のように迫ってきた。

牙が肩を裂き、熱い痛みが走る。視界が白く弾けた。

「ぐっ……!」

必死に木剣を振るい、魔物の顎を叩き飛ばす。よろめいた隙に距離を取る。

だが、左腕は血に濡れ、力が抜けていく。

魔物は円を描いて俺を囲み、唸り声を上げながら狩人のようにじわじわ詰め寄る。

その唸り声に、父の冷酷な叱責が重なった——「不要だ」。

「……終わりなのか」

木剣を振る。牙を受け止める。ギリギリと音を立て——

パキン。

木が裂ける音。

俺の唯一の武器が、あっけなく折れた。

「……っ」

絶望が喉を塞ぐ。父の言葉、リリアーナの視線、ギルドの嘲笑。すべてが重なり、頭が真っ白になる。

藁にもすがる思いで、俺は叫んでいた。

「テイム!」

掌に光。半透明の雫がぷるりと生まれる。

親指大のスライム。

「……は?ふざけるな……!」

魔物が唸り、跳ねた。

小さな影が、俺の前に飛び出す。

牙。衝撃。スライムは木肌に叩きつけられ、潰れかける。

「やめろ!無駄だ、もういい……!」

それでも、震える体で立ち上がる。

再び魔物の前へ、ぽてりと跳ね出た。

「……何やってんだよ……お前……」

涙とも汗ともつかぬものが視界を曇らせる。

小さな体が、俺を庇おうとしていた。

「そんなの……無駄だ……」

「……それでも前に出るのか」

「……俺と同じだな。誰からも必要とされなくても……」

「……必要とされない俺が、お前を必要としてるのか……」

その一瞬。魔物の視線がスライムへ逸れた。

「うおおおおおっ!」

俺は残った木剣の柄を両手で握り、渾身で魔物のこめかみへ叩き込む。

鈍い音。骨が砕ける感触。血の飛沫。

「倒れろっ……!」

二度、三度。石を拾い叩きつける。

汗で手が滑りそうになり、指が痺れ、力が抜けかけても、それでも叩き込む。

鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになり、声にならない叫びを上げながら、ただ何度も。

まだ立ち上がる魔物。呻き声。

スライムが後肢に張り付き、必死に気を引く。

四度目、五度目。

石を握り直す。這って拾い直し、血で視界が霞んでも、全力で振り下ろす。

石がこめかみにめり込み、ようやく巨体が崩れ落ちた。

「はぁ……っ……はぁ……っ……」

全身が震え、呼吸が焼ける。

視界の端で、スライムがふらふらと近寄り、ぷるりと揺れた。

「……俺を守ってくれたか」

声が震え、笑いなのか泣きなのか、自分でも判別できない。

こんな小さなやつに守られてる俺は……笑えるな……。

それでも——。

「……お前の名前は……スミオでいい」

スライムは、こくりと頷いたように震えた。

——こいつがいなければ、俺は死んでいた。

血が止まらない。肩が焼ける。

それでも、立ち上がらねばならない。

「行くぞ、スミオ」

ふらつきながら森を進む。鉄の匂いが鼻にまとわりつく。

やがて、闇の底に薄い光が滲んだ。

幾何学の線が、闇の中で組み上がっていく。円が重なり、星が結ばれる。

「……見つけた」

痛みと一緒に、胸が熱を持つ。

這う。爪で土を掴む。肩が裂ける。呼吸が焼ける。

スミオが前に転がり、かすかな光で足元を照らした。

「まだ……終われない……!」

指先が光に触れた瞬間、冷たいはずの光が熱を持った。

陣が眩い光を噴き上げる。

昨日の声も、父の影も、血の臭いも、一瞬だけ何もかも失重した。

「頼む……俺に、選び直す権利を……」

光に飲まれたその刹那、俺はもう嘲笑を思い出せなかった。


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