運転席の男がバックミラー越しにちらりと安藤綾を見た。
だが、その視線がぴたりと彼女とぶつかり、思わず息をのむ。
「前を見て運転なさい」
綾の声は冷たくはなかった。
けれども、そこには不思議な威圧感があった。
その一言で、運転手は一気に現実に引き戻され、以後は真っ直ぐ前だけを見つめてハンドルを握った。
綾は腕の中の長谷昭陽の背を、静かにトントンと叩いていた。
子どもはすでにうとうとし始めている。
さっきから運転手が何度もミラーでこちらを覗いているのを感じていた綾は、
逆に先に鏡を見返しただけだ――ちょうど目が合ったのは、ただの偶然。
彼が何を気にしているのか、綾にはわかっていた。
――この「自分」はいったい誰なのか。
この世界に来てすぐ、綾はすでに自分の体を確かめていた。
眠る昭陽を抱いたまま、鏡の前で。間違いなく、これは自分の体だ。どうして自分が本の中に来てしまったのかは分からない。
けれど、もしこの肉体が自分のものなら、ここにいるのは吉田王朝の女将軍――安藤綾本人であり、
この世界の「原作の綾」ではないということだ。
つまり、無理に誰かを演じる必要などない。
隠す必要も、媚びる必要もない。
「前方が『三表叔父様お屋敷』です。」
運転手の声には、まだ先ほどの視線事件の余韻が残っていた。
おそるおそる言葉を選んでいるのが分かる。
綾は鼻で笑った。
「『三表叔父様お屋敷』?そんな妙な呼び方、誰が許したの?」
(あんた本人ですよ!)
運転手は心の中で叫んだ。
当主の長谷修彰は長く不在。
そのあいだ、小林優子夫婦はしょっちゅう屋敷に出入りし、
「原作の綾」は彼らに取り入ろうとして、
使用人にもそう呼ばせていたのだ。
綾は自分で言っておきながら、ハッとする。
そういえば、この呼び名は原作で彼女自身が言い出したことだった。軽く咳払いをして、あくまで平然とした口調で言い直す。
「――もうその呼び方はやめなさい」
「……はい」
運転手は短く答えるだけにとどめた。
今日、屋敷で何が起こったのか、彼ももちろん知っていた。
小林夫婦は以前こそ綾に表向き丁寧に接していたが、
当主の失踪が広まるや否や、態度を一変させた。
きっとそれで綾もようやく目が覚めたのだろう――と、
運転手は勝手に納得していた。
それならそれでいい。
少なくとも、強い夫人が屋敷を守ってくれるなら、
自分たち使用人にも希望が持てる。
長谷家には獣のような親族が多い。
主がいない今、誰かが立たなければ、忠誠など意味をなさないのだ。
車は静かにスピードを落とし、白い洋館の前でタイヤを鳴らして止まった。綾は昭陽を抱いたまま外に出る。
その目に映った建物を見て、
口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
――皮肉なことに、ここは彼女自身の所有物だ。
もともとこの家は、原作の綾の数少ない個人資産の一つだった。
だが彼女は「表叔父様」と「叔母様」と呼ばれる小林夫婦に取り入りたくて、
自らこの別荘を譲り渡してしまったのだ。
今もこの二人はその家に住み、
さらに綾を長谷家から追い出そうとしている。
綾は長い足で玄関へと歩き出す。運転手は察しの良い男だった。
指示を待つまでもなく、すでにインターホンのボタンを押していた。
一方その頃――
白い別荘の中では、小林優子と長谷光臣が荷造りをしていた。
彼らは昨晩、長谷和真をこっそり外へ連れ出していたのだ。
もし長谷家から何の見返りも得られなければ、
和真を人質にしてでも交渉材料にするつもりだった。
だが、屋敷での綾の豹変ぶりに、二人はすっかり腰が引けていた。
「なあ、本当に長谷修彰は行方不明なのか?」
荷物をまとめながら光臣がぼそりと呟く。
「そんなわけないでしょ!」
優子は鼻を鳴らす。
「もし本当に失踪してたら、あの安藤綾があそこまで強気になれるわけないわ!」
「でも……本当にいなくなったから、あんなに開き直ったんじゃ?」
「ばっかねぇ」優子は吐き捨てるように言った。
「安藤綾みたいな臆病女が、あんな真似できるわけないじゃない。どうせ長谷修彰が事前に教えたのよ。こう動けってね」