Capítulo 4: お互いの利益のため
Editor: Inschain-JA
藤井彰が現れた瞬間、木村健太が真っ先に手にしていたクラッカーを鳴らした。
その音を合図に、全員が口々に「誕生日おめでとう！」と叫び、空気は一気に最高潮へと達した。
谷川美咲はケーキを乗せたワゴンを、ゆっくりと彰の方へ押していった。そして、一言一言かみしめるように言葉を紡いだ。「彰くん、誕生日おめでとう」
彼女は少し照れたように俯いたが、その目には決意が宿っていた。もう、これ以上待ちたくなかった。
顔を上げて彰と目を合わせ、澄んだ声で言った。「彰くん、私……あなたのことが好き。付き合ってください」
その声には迷いがなかった。彼女は知っていた。もう二度と、これほど勇気を出せる瞬間は訪れないだろうと。
言葉が落ちた瞬間、個室の中が「どっ」と沸き立った。「付き合え！」「いいぞ！」と、周囲の歓声が飛び交った。
だが、少年は動じなかった。感動することもなく、周囲の勢いに押されることもなく、ただ静かに口を開いた。
「ごめん。僕、君のこと好きじゃない」たった一言。それなのに、その短い言葉が刃のように胸に突き刺さった。
彰は一歩も中に入らないまま、踵を返して去っていった。美咲はその場に立ち尽くし、長い間動くことができなかった。最後に、健太が彼女を家まで送り届けた。
それ以来、美咲と彰は一度も連絡を取らなかった。そして数ヶ月後、彰は海外へ渡った。
――それが、五年もの別れになるとは思いもしなかった。
「今日から、僕の家に住め」彰の声は命令のように冷たく響き、反論の余地を与えなかった。
美咲は一瞬ためらい、眉をひそめた。「でも……谷川の家は？」
「僕は一度言ったことは必ず守る」
その言葉に、美咲は何も言えなかった。彼が一度口にした約束は、どんなことがあっても果たされる――それを誰よりも知っていた。
彰の住まいは、北郊の鹿鳴書院。京市でも指折りの高級住宅地で、周囲には一流の教育機関が立ち並んでいた。この家は、彼が十八歳の誕生日に両親から贈られたもので、今や不動産をいくつも所有しているにもかかわらず、彼が暮らすのは常にここだった。今の相場で言えば、すでに数億円はくだらないだろう。
車がゆっくりと別荘の前に停まった。美咲は見上げた。息を呑むほどの豪邸。ここに来るのは、初めてではなかった。
高校生の頃、彼女はここで数日過ごしたことがある。
その当時、彰は大学受験を終えたばかりで、美咲や健太たちはよく遊びに来ていた。
夜更けまで騒いで、そのまま泊まることも多かった。
彼がソファに横になり、足を組んでテレビを見たり、音楽を聴きながらゲーム機を握る姿――その穏やかな光景を、美咲はいまでも鮮明に覚えていた。
「外で突っ立って何してる？」彰は片手をポケットに突っ込み、面倒くさそうに言った。
「あ……」美咲は慌てて返事をし、彼の後ろをついて中へ入った。
室内は記憶と同じだった。淡いベージュを基調に、グレーとブラウンでまとめられた上品な空間。磨かれた大理石の床、控えめな光沢を放つ家具、壁際の花瓶まで当時のままだった。
「お前の荷物はもう叶野に運ばせてある。主寝室だ」彰はビジネスの打ち合わせでもしているような無表情で言った。「今日から僕の衣食住は全部お前が管理しろ。携帯は二十四時間電源を切るな。他の男とつるむのは禁止だ。特に芸能人とのスキャンダルは絶対に出すな。結果はお前が背負うことになる」
美咲は一瞬、笑いそうになった。これは結婚じゃない。まるで契約書だ。
でも、思えば当然だった。この結婚は取引なのだから。お互いの利益のため。
彰は階段に片足をかけ、ふと振り返った。「それから僕は私生活を公にするのが嫌いだ」
「わかったわ」彼女は静かに答えた。いわゆる隠し婚。その方が気楽でいいかもしれない、と少し思った。
数日後。美咲は一度も彰の姿を見なかった。彼からの連絡もなかった。
マネージャーの山口瑞希は、彼女が台本に集中できるようにと、すべての仕事を一時的に止めていた。だから彼女はずっとこの広すぎる家で過ごしていた。
彰は他人が家に出入りするのを嫌う性格で、住み込みの家政婦を置かず、掃除も短時間の家事代行を呼ぶだけだった。
広い家の中には、美咲一人だけ。静かすぎて、息苦しいほどだった。
「電話でもしてみようかな……」そう思った矢先、スマートフォンが鳴った。
「美咲、父さんだ」
「……どうしたの？」
「いや、大した用じゃない。ただ、彰とうまくやってるかと思って。彼、優しくしてくれてるだろう？」
「ええ……ちゃんと、してくれてるわ」
「それなら安心だ。お前が幸せなら、それでいい」
通話を終えかけたが、美咲は少し迷ってから尋ねた。「お父さん、翼産業は……？」
「藤井家の支援もあって、だいぶ持ち直してきたよ。もう少しで安定するだろう」康弘の声は明るかった。長年苦労してきた会社が救われたのだ。
「よかった……」やはり、彰は約束を守った。崖っぷちの企業を、見事に救い上げた。
「時間があるときに、彰にお礼を言っておいてくれ」
「うん……そうする」
どうやって感謝を伝えよう。
彼には、物で報いることなどできない。
少し考えて、美咲は夕食を作ることにした。
その日、彰は会社で三度目の会議に出ていた。重役たちは港湾プロジェクトの件で二時間も言い争っていた。
彰はうんざりして、手元のスマホを見た。そこに、美咲からメッセージが届いた。
美咲：今夜、帰ってくる？
彼はしばらく画面を見つめ、ただ「？」を返した。
美咲：酢豚とアサリの茶碗蒸し、それに麻辣チキンを作ったんだけど……帰ってくる？
彰は無言のまま、口元をかすかに緩めた。「八時に終わる」とだけ打ち込んで送信した。
その笑みを見て、会議室の空気が一瞬止まった。社員たちは顔を見合わせた。会社で氷のように冷徹な藤井社長が、誰に向けてそんな表情をしたのか――誰も想像がつかなかった。
美咲は満足そうにテーブルを整えた。出来上がった料理は彩りも香りも申し分ない。時計を見ると、ちょうど彰の退社時刻。
彼の食の好みは昔からうるさい。高校時代から、彼は食べ物に関して人一倍こだわりがあった。気に入ってくれるだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は赤ワインを取りに行った。
そのとき、玄関の鍵の音がした。
「もう……？まだ時間じゃ……」
彰はコートを脱ぎ、スリッパに履き替え、リビングへ入ってきた。テーブルの料理を見て、少し眉を上げた。「これ、全部お前が作ったのか？」
美咲は小さく頷いた。「うん」
「じゃあ、手を洗って食べよう」彼女は最後の皿をテーブルに置いた。
食卓に並んで座り、彰が一口食べるのを見届けて、美咲はそっと尋ねた。「美味しい？」
星のように輝く瞳に見つめられ、彰は一瞬だけ動きを止め、それから静かに答えた。「悪くない」
たったそれだけの言葉が、彼女には十分だった。
美咲は心から安堵し、微笑みながら彼にスープをよそった。
食事の途中、小さく呟いた。「ありがとう」
彰は手を止めた。「礼はいらない。これは取引だ。俺は商人だ、損をする契約はしない」
その一言で、食卓の空気は一気に冷えた。
「そう」美咲はそのまま黙り込み、最後まで無言で食事を終えた。
彰はゆっくりと箸を置き、低い声で言った。「食べ終わったら皿を洗っとけ」
美咲は小声で呟いた。「こんなに作ったのに、“ありがとう”の一言もないなんて……ほんと、恩知らず」
「今、何か言ったか？」彰の声が冷たく響いた。
「何でもない」彼女は慌てて取り繕った。
彰はそれ以上何も言わず、階段を上がっていった。
美咲が片付けを終えて寝室に戻った頃、彰はすでに眠っていた。
籍を入れてから何日も経つが、同じベッドで眠るのはこれが初めてだった。
彼の穏やかな寝顔をしばらく見つめた後、美咲はシャワーを浴びた。油と香辛料の匂いが体に残っていたからだ。
入浴を終え、そっとベッドに入った。彼を起こさないように、息を潜めた。
まぶたが落ちかけたその瞬間、力強く温かな腕が彼女を抱き寄せた。
次の瞬間、彰は体を翻し、美咲を自分の下に押し倒した。その瞳は炎のように熱を帯びていた。
彼の動きは、もう以前のように荒々しくはなかった。いつの間にか、美咲の腕が自然に彼の首に回っていた。
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