佐藤昭彦と斎藤沙耶の婚約披露宴は、あるホテルの大ホールで開かれた。開始時刻は、縁起の良い正午十一時三十八分に設定されていた。
沙耶の立場を考慮し、この日、佐藤家はメディアを一切招待していなかった。
谷川美咲は藤井彰と共に会場へ姿を現した。隣に立つ男があまりにも目を引く存在だったせいか、ホールの入り口に入った瞬間、無数の視線が彼女たちに注がれているのを感じた。
もっとも、美咲は長年スポットライトの下で生きてきた人間だった。すぐにその注目にも慣れ、藤井彰の腕を軽く取って堂々と歩みを進めた。誰に話しかけられても、彼女は穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に会釈して応じた。今日の彼女は、谷川家の令嬢としてだけでなく、藤井彰の妻としての顔も持っていた。
ホールの中はすでに多くの来賓で賑わい、どこを見ても華やかで、京市の名門たちが勢ぞろいしていた。
中央には長テーブルが置かれ、色とりどりの料理と飲み物が並べられていた。昭彦と沙耶は、その周りで来客たちと笑顔で挨拶を交わしていた。
昭彦は黒のスーツを身にまとい、髪はきちんと整えられ、全身から落ち着いた大人の雰囲気が漂っていた。一方の沙耶は、赤のマーメイドラインのドレスを纏い、胸元の開いた肩出しデザインが白い肌を際立たせていた。
やがて昭彦は周囲と数言交わしたあと、沙耶を連れてこちらへやって来た。
「彰さん、美咲さん。久しぶりだね」昭彦は穏やかな笑みを浮かべながら声をかけた。その微笑は、誰に対しても変わらぬ柔らかさを持っていた。
美咲はハンドバッグから小箱を取り出し、沙耶に差し出した。「沙耶さん、昭彦さん、婚約おめでとう。これはお祝いのプレゼント」
沙耶はその場で箱を開け、中に入っていたペアネックレスを見て笑った。「ありがとう、美咲さん。とても気に入ったわ」
対照的に、藤井彰は何の贈り物も持ってこなかった。ただウェイターから酒のグラスを一つ取り、軽く掲げて言った。「婚約おめでとう」
沙耶は明るく笑いながら言った。「彰さん、最近いくつかのエンタメ会社を買収したって昭彦から聞いたわ。いい案件があったら、私のことも忘れないでね?」
その言葉と同時に、沙耶の視線がちらりと美咲に向いた。
明らかに含みを持つ言い回しだった。藤井彰ほどの男なら、その裏にある意図を見抜かないはずがない。
彼は唇の端をわずかに上げ、ゆっくりと答えた。「君はすでに三冠女優だろう。今さら私のリソースが必要なのか?」
「私が必要かどうかは別問題よ。彰旦那が“与える気があるか”のほうが問題でしょ」沙耶は「彰旦那」という言葉を、わざと強調して口にした。
彰は冷静に言葉を返した。「もし私が与えたら――君は受け取るのか?」
沙耶は笑みを崩さぬまま、その視線をまっすぐ返した。「もちろんよ。なぜ受け取らないと思うの?」
美咲は二人の会話の深い意味を理解できなかった。ただ、空気の張りつめていく気配だけははっきりと感じた。彼女は慌てて昭彦に視線を送り、場を収めてほしいと合図を送った。
学生時代から、彰と沙耶の仲は決して良くなかった。二人が同じ場にいるだけで、火花が散る――そんな関係だった。
昭彦は美咲の合図を受け取り、苦笑しながら言った。「沙耶さん、そろそろみんなも集まってきたし、挨拶に行こうか」
沙耶が何か言い返す前に、昭彦は彼女の手を取り、その場を離れた。
主役の二人がホール中央に立つと、周囲の人々が一斉に集まった。
昭彦は沙耶の手を取り、ステージ中央でスタッフからマイクを受け取った。「皆さん、本日はお忙しい中、私と沙耶の婚約披露宴にお越しいただき、ありがとうございます。私たちは出会い、知り合い、恋に落ち、そして今日、この結婚という新たな道へ進もうとしています。この幸せな瞬間を、皆さんと共に迎えられることを心から感謝しています。それでは――婚約披露宴を、正式に始めます」
大ホールには大きな拍手が響いた。人々の祝福の気持ちが、その音に込められていた。
全員の見守る中、昭彦と沙耶は指輪を交換し、抱き合って口づけを交わした。
儀式が終わると、ケーキカットの時間になった。その頃、藤井彰はすでに仕事関係の話で数人に囲まれており、美咲は会話に加われず、近くのソファに一人腰を下ろした。
退屈しながら少し座っていると、美咲はウェイターに頼んでアルコール度数の低いフルーツワインを一杯もらった。
こういう場で必ず付きものなのは――噂話だった。
「あそこに座ってるのが、谷川家のお嬢さん、美咲さんでしょ?」
「そうそう、藤井家と谷川家が結婚したって聞いたわよ」
「何言ってるの、あれは谷川家の一方的な話よ。藤井家は彼女を正式に認めてないらしいじゃない。飾り物みたいな存在なんだって。そうじゃなければ、あんなに一緒にいて、なんで彰さんが結婚式を挙げないの?」
「……」
美咲はハンドバッグをぎゅっと握りしめた。自分はもう強くなったと思っていたのに、その言葉が心に突き刺さり、痛みが走った。
そうだ。もし私が本当に大切な存在なら、彼はなぜ一度も式を挙げてくれないのだろう。
彼女の瞳に、かすかな苦味が浮かんだ。結婚とは、本来、愛する人と共に歩む神聖な儀式。彰は彼女を愛していない。だから、彼女にその舞台を与えるはずもなかった。自分は、彼にとってただの“関係”にすぎないのだ。
「美咲さん?」
声をかけられて、彼女は慌てて表情を整えた。甘い笑顔を作って振り返った。「昭彦さん」
昭彦は隣のソファに腰を下ろし、手にしたケーキを差し出した。「取りに行かなかったから、一つ取っておいたよ。君の好きな抹茶味だ」
美咲の胸がじんと温かくなった。長い年月が経っても、彼が自分の好みを覚えていてくれたことが嬉しくてたまらなかった。「ありがとう」
「顔色があまり良くないね。体調でも悪いのか、それとも何かあった?」
昭彦は昔から、彼女の心を見抜くのが早かった。
美咲は軽く首を振り、苦笑してごまかした。「大丈夫。ただ、朝にちょっと変なものを食べたのかも。今、少し胃が痛いの」
「そうか。少し休むかい?上の階に控室があるから」
少しの間でも、誰もいない場所で休めるのなら―美咲は頷いた。「……うん」
昭彦は送ろうとしたが、美咲はそれを断った。彼は今日の主役なのだ。まだ多くの客が待っている。
ベッドに横たわると、美咲はすぐに眠りに落ちた。深く、長い眠りだった。目を覚ましたときには、すでに外は薄暗くなっていた。
ぼんやりとバッグを探り、携帯を取り出して時間を確認する。午後五時半。婚約披露宴は、もう終わっているはずだった。
しかし、その下に並ぶ着信履歴を見て、彼女は目を見開いた。藤井彰から十三件もの着信。
いつの間にか携帯がマナーモードになっていたため、着信音には気づかなかったらしい。
彰がこんなに何度も電話をかけてくるなんて……何かあったのだろうか?