宮崎葵も健太に気づいた。
葵が口を開く前に、健太はいきなり彼女の手首を掴み、引きずるように歩き出した。
「離してよ」
葵はその整った顔面にパンチを浴びせたい衝動を抑えながら、階段室に引きずり込まれた。
ちょうど廊下を通りかかった松本彰人は、葵が男と引っ張り合いながら階段室に入る姿を目撃したような気がした。
一歩踏み出そうとしたその時、受付で診察番号が呼ばれ、午後の診療が始まった。
「葵が男と…?ありえない、見間違いだろう」
彰人は首を振った。ここ数年、葵の周りにいる男は自分だけ。過去もそうだったし、これからもそうあるはずだ。
人影の少ない階段室は薄暗かった。
葵は健太の手を振り払った。
心の中で毒づきながら。
健太は両腕を伸ばし、葵を自分と壁の間に閉じ込めた。
身動きが取れなくなった葵に、男がうつむきかける。その息が間近に感じられ、深い瞳に葵の顔が映っている。
夢の中の光景が一瞬よぎった。あの男が彼女の唇を貪り、飲み込むようにキスしていた──
「そんなに飢えてるのか?一度会っただけですぐ飛びついてくるなんて」
健太は嘲るような口調で言い放った。
葵はぱっと目を見開いた。
言葉はわかるが、その組み立てが理解できない。
「まだ認めないのか?俺に惚れたくせに、興味ないとわかると看護師のフリしてストーカー?わざと制服で誘惑してるんだろ?」
健太の視線がさらに下へ移動した。すると、体が妙に熱くなってくる。
くそ、このナース服を着た女、恐ろしく似合ってる。
葵は白い看護帽を被り、長い髪をまとめ上げ、美しい白鳥のような首筋を見せている。
総合病院のナース服はごく普通のデザインだが、葵が着るとウエストがくっきり引き締まり、豊かな曲線が強調される。短いスカートから伸びる脚はまっすぐで白かった。
お見合いの日よりも、今日の彼女は一段と妖艶だ。
こんな格好で歩いていたら、どれだけの男が彼女を眺めていたか…
健太の胸に、理由のわからない不快感が広がった。
この女、計算高いだけじゃなく、手段を選ばないタイプなのか。
ふん、そんな女、これまでいくらでも見てきたさ。
健太の表情は曇った
突然、彼は神経を研ぎ澄まし、一歩後ずさった。
まさにその瞬間、葵は膝を上げた。女性のきれいな脚が鞭のように黒い影となって「健太の局部」に向かって突き進んできた。
もう少し遅かったら、「健太の局部」は大惨事になっていただろう。
二人とも驚いた。互いの反応の速さは予想外だった。
「まともに話せないの?頭がおかしいなら精神科へ、5階B区域。目が悪いなら眼科、7階A区域。よく見て、私はこの病院の看護師よ」
葵は身分証をぴしゃりと見せた。突然、健太の母親に同情を覚えた。こんなボンボン息子を持って、高橋夫人も大変だろう。
葵は思った。健太のようなナルシストは、一発殴って詰まらせた頭の水を抜いてやるべきだ。
彼女は健太を睨みつけ、踵を返して去って行った。
「彼女、この病院の看護師だったのか?」
健太はしばらくしてようやくこの事実を受け入れた。誤解していたのだ。
腹が立った。この女、ついに本性を現したな。お見合いの時は優しく思いやりのあるふりをして、母親を丸め込んでいた。
こんな女とお見合いして、付き合って、結婚するなんて、絶対にありえない!
健太はスマホを取り出し、葵を削除した。
LINEを削除した後、健太は最上階のVIP病室へ向かった。ここには数室しかなく、東京の富豪や要人だけが入院できる。
祖父の高橋昭雄(たかはし あきお)はベッドに気持ち良さそうにもたれ、口元は脂でテカテカ。孫に向かって笑いかけた。「孫よ、最近食事の友達ができてね。料理の腕がよくて、あっさりしてて健康的なんだ。これからは彼女と一緒に食べるよ」
健太はわずかに眉をひそめた。「変なもの、食べ過ぎないでください」
複雑な家庭環境で祖父に育てられた健太は、老人との絆が深かった。
祖父が外で食べるものは、どうしても健康面が心配だ。
「心配するな、彼女の作るものはとても健康的だ。それと」昭雄は目をくるりと動かし、葵が書いたLINEの番号を健太に渡した。「やっとLINEの使い方を覚えたんだ。誰かに登録してもらった。お前のプライベートアカウントで俺を追加しろ」
健太には2つのLINEアカウントがあった。1つは仕事用で、重要ではない人々を追加するためのもので、以前葵に教えたのはこの仕事用だった。
「もうひとつはプライベート用で、家族と幼なじみ数人、それに彼の憧れの人、白石春雨(しらいし はるさめ)さんだけ。よそ者はまったく入れないんだ。」
健太は祖父が渡したLINEアカウントを追加し、アイコンを見た。パソコンの起動画面のような青空の絵で、名前も「青空」だった。どこかで見たような気がした。
しかしこの手のアイコンと名前はどこにでもある。特に気に留めず
彼は何気なく「おじいちゃん」と登録した。
「俺のことをいつも思い出せよ。食べるもの飲むもの、全部シェアしろ。あと、頻繁に『おやすみ』『おはよう』『愛してる』も送れよ」
出かける前、高橋昭雄は真剣な顔で言い渡した。
健太は首を振った。おじいさんはどこでそんな言葉を覚えてきたのか。
しかし孝行な孫である彼は、おじいさんの言葉を心に留めた。
病院の廊下で、葵は窓辺に立ち、外の青空を眺めていた。胸は苦い思いでいっぱいだった。
十年前、母は不慮の事故で彼女の目の前で息を引き取った。葵は父のもとに送り返された。
しかし宮崎のお父さんはちょうど仕事が上向きの時期で、娘にはあまり関心を持たなかった。
宮崎おくさんと由紀は常に彼女を批判し、学校のクラスメートも彼女を孤立させ、いじめた。
松本彰人だけが、水たまりに押し倒された彼女を助け、前髪をかき上げながら微笑んで言った。「君、なかなか可愛いね。俺は松本彰人。怖がらなくていい、これからは俺が守ってやる」
それから十年以上経った今も、あの日のことは鮮明に覚えている。あの日は大雨だった。
彼が微笑んだ時、雨はちょうど上がった。彼の背後には雨上がりの青空が広がり、鮮やかな虹がかかっていた。それ以来、彼女は彼の小さな影として十年以上も歩き続けた。
彼女は、二人がこのまま歩いていけると思っていた。ここ数年、彰人の周りには多くの追っかけがいたが、彼は誰にも興味を示さなかった。
自分は特別だと思っていた。今日まで、それがすべて自分の思い込みだったとは。
ピンポーン~
携帯が鳴った。
葵は暗い表情で携帯を見ると、友達リクエストが来ていた。
真っ黒なアイコンで、ネット名は「森田輝」。
あのおじいさんのLINEだと気づき、すぐに承認した。携帯を置こうとした瞬間、メッセージが届いた。
一枚の写真だった。
雨上がりの空、青空と白い雲、そしてまぶしいほどの虹。
葵の心臓が突然高鳴った。彰人への切ない思いが、一瞬で和らいだ。
一方、健太はコーヒーを飲みながら、無表情だった。
「『おはよう』『おやすみ』『愛してる』なんて、ありえない」
健太は心の中で呟いた。
しかし送らないと、祖父がまた騒ぎ出すのは目に見えている。
いったい何を送れば?
健太は筋金入りの直球タイプ。用事があれば電話するのが信条で、メッセージで女の子を宥めるのは大の苦手だ。
憧れの白石春雨にでさえ、そんなメッセージは送ったことがない。
悩む健太が顔を上げると、外では雨が上がり、虹が出ていた。
カシャッ~
任務完了!
……
総合病院の薬局は遅くまで開いており、葵は一人で夕食を取っていた。
先ほどの虹のことを思い出し、おじいさんに返信していないことに気づいた。失礼だったと思った。
急いで自分の夕食の写真を送り、きちんと食事を取るよう注意した。
病院の玄関を出ると、赤いスポーツカーが彼女の前に停まった。
助手席の窓が下り、由紀が中から顔を出した。
「お姉ちゃん、仕事終わり?よかったら送っていこうか?」