ナースステーションの片隅で電話をかけていても、灯の頭の中はまだ「スマホをトイレに落とした」というショックから抜け出せず、看護師の問いかけにすぐには反応できなかった。
「旦那さんに電話するんですか?」
「えっ?」
灯は間抜けに口を開ける。
看護師は彼女のカルテを指で軽く叩きながら、穏やかに言葉を継いだ。
「人工流産の手術でしょう?既婚ってなってるけど、ご主人が見当たらないですね。付き添いは?」
「……知らないの。忙しい人だから」
唇をかみながら答えつつ、灯は再びスマホのボタンを押す。
看護師に背中を押されるようなその一言で、指先は思わず彰の番号にかけそうになっていた。
看護師は気まずさを覚えたのか、慌ててフォローする。
「きっと旦那さんも大事な仕事で来られないんですよ。もし知ったら、あなたのこと心配で仕方ないはずです」
その言葉に、灯の手が一瞬止まる。
看護師はさらに微笑みを浮かべながら続けた。
「まだ若くて綺麗なんですし、旦那さんもきっと素敵な人でしょう?すぐにまた新しい命を授かれますよ」
「……もう、ないよ」
声は歯の隙間から絞り出すように、小さく震えていた。
「私たち、離婚するから」
空気がぴたりと止まった。看護師の笑みは固まり、灯は入力しかけた番号を一瞬で消去し、新しい番号を打ち込む。そして振り返って、困り果てた看護師に無理やり笑顔を見せた。
「この子は……彼とは関係ないの。だって、あの人……子ども作れないから」
看護師の表情は陰から驚き、さらに引きつったものに変わっていく。
その時、電話の向こうから不機嫌そうな低い声が響いた。
「お姫様?ちゃんとした理由があるんでしょうね。さもないと……花がどうして散るか、教えてあげるわよ」
「流産したの。一人で、病院にいる」
しばしの沈黙の後、衣擦れの音が聞こえ、紀田凪(きた なぎ)の声はすぐにきびきびとしたものに変わった。
「どこの病院?」
結局、灯は凪のすすめる病室の移動を断り、退院してそのまま彼女の家で療養することにした。
「本当に、彼に離婚って言ったの?」
ソファに横たわる灯は、スナックをつまみながらテレビを眺め、部屋を片付ける凪の声に気の抜けた返事を返した。
「うん、嘘ついてどうするの」
「意外だねえ。私はてっきり、あんたは死んでも渡辺の家の門前に石碑立てる女かと思ってたよ。……ふーん、根性あるじゃん」
腕を組みながら、凪は意味ありげに問いかける。
「で?あの完璧主義で支配欲の強い渡辺彰が、嫁に『離婚』なんて突きつけられて、大人しく引き下がると思う?」
灯は「ふん」と鼻を鳴らした。
「離婚って切り出すくらいだよ?怖がるわけないじゃん」
――ドンドンドンッ!
突然、玄関の扉が激しく叩かれた。
「誰よ!ドア壊れるでしょ!」
猫目で覗いたは、その顔色を一気に青ざめさせた。
「……わ、渡辺彰!?」
灯は喉にぶどうを詰まらせ、目を剥いた。
「どうするどうする、旦那が来ちゃったじゃない!」
外では、さらに苛立ちを隠さない声が響く。
「森田灯!いるのはわかってる、出てこい!」
凪は戸惑いながらもドアノブに手をかけ、灯に視線で問いかける。今までも散々見てきた。喧嘩して飛び出してきても、結局は彰の電話一本で帰っていった灯の姿を。今回もきっと……そう思ったのに。
「開けないで。私は帰らない」
その言葉に、凪の手が空中で止まった。
灯は咳き込みながらぶどうを飲み込み、静かに視線を落とす。
――思い出した。結婚したばかりの頃。
渡辺家の婦人たちと一緒に慈善パーティーに招かれた時、入場でカードが通らず、彼に何度電話しても繋がらなかった。
義母の小川美桜(こがわ みさくら)に助けを求めても返事はなく、冷たい夜風の中で二時間も立ち尽くすしかなかった。最後にようやく、義母の秘書が出てきて案内してくれた。
後で勇気を出して彰に話した時のことを、灯は今も忘れられない。
彼は書類から顔を上げただけで、こう言ったのだ。
――「外は寒かった? 二時間くらいでしょ」
その瞬間の冷たさは、どんな熱い恋心でも溶かせなかった。
凪は驚いて尋ねた。「……本気で言ってる? 彰を外で立たせておく気?」
「立たせときゃいいじゃん。別に寒くないでしょ」
わざと声を張り上げ、外に聞こえるようにする。
すると、玄関の騒音はぴたりと止んだ。凪が覗き穴を覗き込み、小声で呟く。
「……いない!」
胸の奥のざわつきが、一瞬で静かに沈んでいく。灯は皿のぶどうをつつきながら、心のどこかで小さな空虚を噛みしめていた。
「はー、びっくりした。てっきり旦那があたしに文句言いに来たのかと」
凪が胸を撫で下ろすと、灯は冷笑を浮かべた。
「そんな大事に思われてるわけないじゃん」
凪は眉をひそめながらも、友人を慰めようとする。
「でもさ、全くどうでもよかったら、わざわざ来る?それなりに気にしてるんじゃない?」
灯はソファに身を投げ出し、吐き捨てるように笑った。
「本気で探す気があるなら、消えたりしないでしょ。……男なんて信用ならない」
その時、凪のスマホがけたたましく鳴った。
「は?管理会社?こんな時間に?」
出て数秒、彼女の表情が一気に固まる。
「はい、私ですけど……はい? な、何ですって!?森田灯を……不法監禁だと!?旦那さんが警察に!?」