橋本愛美は彼に背を向けたまま立っていたので、表情は見えなかった。「誰?」
中村和久は答えた。「前の婚約者だ。病気で急死した」
「そう、残念ね。用事がなければ私、先に行くわ」愛美はエレベーターのボタンを押した。その仕草はごく自然だった。
エレベーターのドアが閉まる前、和久は何気なく彼女の顔を観察し、それからリビングの方へ歩き始めた。
彼のこの行動と言葉に、愛美は警戒心を抱いた。今後は行動に気をつけなければならない。
翌日の夕方近く。
一群の人々が集まって楽しそうに話していた。
「これから美味しいものが食べられるよ」
「あんな高級なところ、私たちじゃ一生行けないわ」
「石川お嬢さんは本当に気前がいいわね。何かめでたいことでもあったのかしら。結婚するとか?」
「聞いた話では、橋本さんのおかげで石川お嬢さんが私たちを食事に招待してくれるんだって。詳しい理由は分からないけど」
「橋本さんが提案したの?」
「そうよ」
「すごい!橋本さんは美人で性格もよくて、私たちのことまで考えてくれる。本当に素晴らしい主人ね」
「そうだよね、もう橋本さんじゃなくて若奥様って呼ばないとね」
「あはは、そうね。若奥様だわ」
皆が期待に満ちた表情で喜んでいる様子を見て、板羽雄大は困った顔をした。「中村家は上から下まで百人近くいるんだ。全員が職場を離れるわけにはいかないだろう。橋本さんの好意は嬉しいけど、仕事はしなきゃならないんだ」
中村お婆さんは高級な龍井茶を手に持ち、目に喜色を満たしていた。「見てごらん、みんな愛美のことを褒めているわよ」
「........」板羽は無言だった。重要なのはそこじゃないだろう。もし警備員たちが全員いなくなったら、この広大な中村家を誰が守るのか。物が盗まれたり損害が出たり、あるいは事故が起きたりしたら、取り返しがつかなくなる。
中村お婆さんは全く気にする様子もなく、手を振った。「みんなに行って楽しんでもらいなさい」
「警備と仕事はどうしますか?」
「私の実家から人を呼んで交代させるわ」
「それならいいですね」板羽はほっとした。早く言ってくれればいいのに。
少し間を置いて、にやにや笑いながら「お婆さま、私も行っていいですか?」
「みんな行っていいわよ」
「わーい、了解です!」板羽はうれしさのあまり、口が閉じられないほどだった。
中村家から前後して数十台の高級車が堂々と出発した。
石川奈緒が先頭に立って案内していた。
車内では優雅なクラシック音楽が流れ、時速60キロで、速すぎず遅すぎずに走っていた。
道のりの半分ほど、市街地に着いたとき、彼女は携帯を取り出し、厳しい表情である人物に電話をかけた。「頼んだことは全部済んでる?」
「全部済みました」電話の向こうは男性の声だった。
「もう一度確認して。愛美姉さんは簡単には対処できない相手よ」
「分かりました」
「他のこともちゃんと覚えてるわよね?」
「ええ」男は保証するように言った。「たとえ計画通りに進まなくても、彼らがあなたにたどり着くことは絶対にありません」
「それならいいわ。実行するときは遠慮しないで。何も気にしなくていい」
「了解しました!」
「成功したら、残りの半分のお金をすぐに振り込むわ」
「OK」
電話が切れると、奈緒は車のオーディオを消し、顔に冷たい笑みを浮かべた。今のこの彼女は、普段の可愛くて純粋な姿とは百八十度違っていた。「お姉さまったら、私と戦おうなんて、まだまだ甘いわね!」