澪の頭の中は、ただ一つの名前で嵐のようにかき乱されていた――藤原直哉。
彼はもう知っているのかもしれない。
この静かな隠れ家を突き止めて、ここまで来たのかもしれない。
しばらくの間、澪はその場から動けず、まるで爆発するかのようなドアをじっと見つめていた。
(真帆さん経由で私を見つけたの?)
その考えが、悪い見出しのように頭をかすめた。
でも……それはない。真帆さんは仕事関係の人ではない。あのときも奇妙で唐突な出会いだったし、そもそも真帆さんは「うっかり億万長者の敵に私を売る」ようなタイプじゃない。
インターホンを無視しようとしたそのとき、聞き覚えのある、かすかな声が届いた。
(すごいわね、私!自分のおばさんに驚いて心臓止まりかけるなんて。実に優雅だわ)
その瞬間、澪の肩から力が抜け、急いでドアへ向かった。
そこには、柔らかく微笑む真帆さんが立っていた。もちろん、彼女なら五階にも入れる。まだキーカードを持っていたのだから。この部屋を最初に見つけてくれたのも、他ならぬ彼女だった。
「おばさん、お待たせしてごめんなさい」澪は身を引いて出迎えた。
「大丈夫よ、澪ちゃん……」
澪は罪悪感を覚えながら、真帆さんをリビングへ案内した。
「真帆さん、わざわざ来てくださらなくても。今日の午後に伺うって言ってましたよね」
文句ではなかった。ただ、この数日間たくさんのことをしてもらったのに、また来てもらったことが申し訳なかったのだ。
真帆さんは何も言わず、澪の手を取って、そっとソファへ導いた。まるで何か重大な話をするかのように。
彼女の不安げな目を見ただけで、澪は察した。
だが、あえて黙っていた。先に口を開くのは彼女に任せた。
「澪ちゃん……お願い、今は外に出ないで」
真帆さんは優しく言った。手は暖かく、しっかりと澪の手を包み込む。まるで澪の無謀な行動を物理的に止めようとしているかのように。
「危険なのよ。あまりにも多くの人に気づかれてしまう可能性があるから。しばらくここにいてくれる?」
澪は思わず微笑んだ。
思った通りだった。きっと、真帆さんは朝のニュースはもう見ている。小野家のスキャンダルは、まだテレビやゴシップサイトを賑わせていた。まるで世の中に他の話題が存在しないかのように。
「おばさん、やっぱり見たんですね?」澪は微笑みながらそっと尋ねた。
「ええ」真帆さんは頷き、澪の手を優しく叩いた。
「澪ちゃん……本当に、あんなことが起きてしまって、ごめんなさい」
「ありがとう、おばさん……」
澪は、真帆さんの心配を和らげるためだけに微笑み返した。
「でも心配しないで。私は大丈夫。本当に……今はもう、平気です」
真帆さんは、信じたいと言わんばかりに、そっと頷いた。
「澪ちゃん、どうしてあなたのお父さんがあんなひどいことをしたのか……私にはわからない。でもね、澪ちゃんは一人じゃないってことだけは覚えていて」
彼女のしわのある手が澪の手を包み込み、そのぬくもりと確かさが澪の胸に沁みた。
「私は、澪ちゃんの本当の家族よ。拒まないで。澪ちゃんの血は私にも流れているの。澪ちゃんは私の命の恩人よ。澪ちゃんがあの珍しい血を提供してくれなかったら、私は今ここにいない」
真帆さんの目に、涙が浮かび始めた。澪は胸に静かな温かさを感じた。
澪の心に、あの病院での最初の出会いがよみがえった。血の気を失って倒れる真帆さん。走り回る看護師たち。そして、珍しい血液型が一致していたことに気づいた瞬間の衝撃。
「おばさん……そんなこと言わないで」澪はささやいた。
「私にとって、あなたはもうずっと本当のおばさんでした。だから助けが必要だった時、最初に連絡したんです。……本当に、ありがとうございます」
気づけば、澪は真帆さんの温かな抱擁の中にいた。
「ありがとう、澪ちゃん……あなたがいてくれて、そしてこの小さな町に来てくれて、本当に感謝してる」
真帆さんの肩が震えているのを感じ、澪の目にも熱いものが込み上げた。
しばらく、ふたりはそのまま抱き合い、ようやく離れると、会話はまた穏やかに流れ始めた。
今度は、涙はこぼれなかった。
ふたりとも分かっていた。これは悲しむべきことではなく、祝福すべき一章なのだと。
そして、まるで天気の話でもするような調子で、澪が口を開いた。
「そういえば……私、妊娠したの。産むつもり」
一瞬で空気が止まった。
真帆さんはまばたきも呼吸もせず、手を宙に浮かせたまま、まるでその言葉が爆発したかのように澪を見つめた。
時間がゆっくりと過ぎていった。
長い沈黙のあと、唇がわずかに動き、震える声が漏れた。
「澪ちゃん……ああ……何も聞かないわ。でもね、それを聞けて本当に嬉しい。おめでとう、澪ちゃん……」
安堵が澪の胸に広がった。問い詰められることも、責められることも覚悟していた。でも返ってきたのは、真帆さんの静かな受け入れ。それこそが、今の澪に必要だった。
「澪ちゃん、これから、どうするつもりなの?」真帆は尋ねた。
「特に何も。この美しい町で静かに過ごしながら、赤ちゃんを育てたいんです、おばさん」
「そう、それがいいわ、澪ちゃん。心配いらない、私が力になるから」
真帆さんはそう言って、優しく澪の手を叩いた。
「ありがとう、おばさん」
真帆さんは微笑んだ。でもその笑みはすぐに翳った。澪が何も持たずに家を追われたことが、まだ胸に引っかかっているのだ。
「そうだわ……お仕事は?何か考えてる?」
「まだですね」澪は淡い、皮肉まじりの笑みを浮かべた。
「でもそのうち…私の噂が落ち着いたら、何か打ち込めることを見つけるつもりです」
焦ってはいなかった。当面の生活に困らない程度の蓄えはある。それ以外のことは、嵐が過ぎてからでいい。
真帆さんはしばらく澪を見つめていた。目の周りのしわに、心配の色が深く刻まれていく。
そして、何かを決意したように前のめりになった。
「澪ちゃん、世間があなたのことを忘れた頃に…うちのカフェに来て。手伝ってくれない?」
澪は驚いてまばたきした。
「え……おばさん、カフェやってたんですか?自分のお店?」
ずっと花屋だけだと思っていた。
「ええ。私の店よ。小さいだけど、スタッフは私ともう一人だけだよ。一年前に始めたの。花屋のすぐ隣に。とにかく、もう一人のスタッフは先週急に辞めちゃってね。今は一人で両方回してるの。だから私の意図、わかるでしょう?」
彼女の顔には、疲れがにじんでいた。
でも澪が何か言う前に、真帆さんは続けた。
「でも、無理にとは言わないわ、澪ちゃん。寂しいときに遊びに来てくれればいいし、もし手伝ってくれるなら、普通のスタッフ扱いでお給料は出さない。それは澪ちゃんへの侮辱になるから」
澪は微笑んだ。手伝うのは構わなかった。
「それか……澪ちゃん、あなた、株主にならない?投資してくれたら……」
真帆は付け加えた。
澪は少し考えた。過去の影から離れるために、何か別の光が必要だった。
カフェ――今まで想像したこともなかった。けれど、なぜかしっくりきた。
澪はそっと笑みを浮かべ、真帆さんに手を差し出した。
「おばさん……あなたの新しいパートナーになれて、嬉しいです」