決戦までのカウントダウンが始まって、最初の日。 僕は月読さんの言葉通り、放課後の街を彷徨っていた。「感情のビュッフェ」とは言ったものの、いざそれを“食べる”となると、何から手をつければいいのか分からない。
『時のかけら』に戻り、途方に暮れている僕に、月読さんは一杯のハーブティーを差し出しながら言った。 「やみくもに食べたって、お腹を壊すだけよ。今のあなたに必要なのは、強く、純粋で、目的のはっきりした感情。例えば……」 彼女は店の窓から、駅前の広場を指差した。そこでは、一人の若いストリートミュージシャンが、緊張した面持ちでギターを抱えている。観客はまだ誰もいない。
「彼、今日が初めての路上ライブなんですって。怖くて、逃げ出したい。でも、それ以上に、自分の歌を届けたいと願っている」 彼女の言葉に導かれるように、僕は広場へと向かった。ミュージシャンの青年からは、恐怖を示す灰色のオーラと、それを振り払おうとする、眩い黄金色の光がせめぎ合っていた。
それは、純度100%の、《勇気》の光だった。
青年が震える指で最初のコードを弾き、歌い始める。その歌声に乗って、黄金色の光はさらに輝きを増した。僕はその光に手を伸ばし、そっと、しかし確実にその一部を回収(コレクト)した。
【純粋な《勇気》の回収に成功。感情ポイントを300獲得しました】
胸に流れ込んできたのは、まるで炭酸水のような、弾ける感覚だった。足がすくむような恐怖を乗り越え、一歩前に踏み出す力。僕自身の心は動かない。だが、僕のシステムが、僕の魂が、その力の質を確かに理解していた。
「……悪くない」
それから三日間、僕は月読さんの助言を受けながら、街中の様々な感情を回収して回った。 迷子の猫を飼い主の元へ届け、溢れんばかりの《安堵》と《愛情》を。 引退する老教師へのサプライズパーティーに紛れ込み、教え子たちからの暖かい《感謝》を。 リハビリに苦しむ少年が、初めて自分の足で立ち上がった瞬間の、何物にも代えがたい《達成感》を。
僕の感情ポイントは、みるみるうちに溜まっていく。そして、僕は気づいた。僕の心は相変わらず静かなままだが、システムに蓄積された感情の光が、僕の内側で混ざり合い、脈打ち、まるで新しい生命体のように蠢いていることに。
「ずいぶん溜め込んだわね」 決戦前夜。店内で目を閉じていた僕に、月読さんが言った。 「今のあなたは、上質な感情で満たされた火薬庫のようなもの。でも、それを爆発させるための“引き金”がない」 「引き金……?」 「そう。『盾』の作り方は教えたわね。次は『矛』よ。あなたの言葉に、回収した感情の力を乗せるの。嘘を暴き、人の心を動かす、言霊のスキルを」
彼女は僕の目の前に、一枚のタロットカードのようなものを置いた。そこには、剣を掲げた天使が描かれている。 「目を閉じて、イメージするのよ。あなたが集めた《勇気》を剣の形に、《感謝》をその輝きに、《達成感》をその鋭さに。そして、あなたが信じる“正義”のために、その剣を振るうイメージを」
僕は言われた通りに、意識を集中させた。システムの中で、黄金色に輝く感情の光が、僕のイメージ通りに形を変えていく。それは一本の、光り輝く剣の形を成していった。
【複合感情による、新規スキルの生成を確認】 【スキル『断罪の言霊(ジャッジメント・ワード)』を習得しますか?】 【効果:対象に言葉を投げかける際、蓄積した正の感情エネルギーを乗せることができる。対象の罪悪感や隠し事に強く反応し、精神的な動揺を与える。エネルギーの消費量は、言葉の威力に比例する】
これだ。これが、僕の『矛』になる。 「……はい」 僕が頷くと、光の剣は僕の魂に溶け込むように消えた。
目を開けると、月読さんが満足げに微笑んでいた。 「準備は整ったようね、神木くん」 店のカレンダーが目に入る。佐々木隼人回顧展、開催初日。決戦の朝が、もうすぐそこまで来ていた。
「ええ」 僕は自分の手のひらを見つめる。そこには何も見えない。だが、僕には分かった。僕の手の中には今、忘れられた天才の無念を晴らし、巨匠の嘘を切り裂くための、光の剣が握られているのだと。