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【ライトユリ】
……
「樋口さん、言いにくいんですがね、あなたのALSはもう末期に移行し始めてるんですよ。そんな金でマッサージに行くくらいなら、家を売ってローンでも組んで、うちの治療を受けるべきです。医者を、今の科学技術を信じてくださいよ……」
「よせやい、何がマッサージだ!」
死亡診断書を手に、樋口透(ひぐち とおる)は松葉杖を突き、おぼつかない足取りでどうにかこうにか病院の出口にたどり着くと、家の売却とローンを組んでまでの治療を勧めてくる悪徳医者を、不満げに睨みつけた。
「俺は作家だぞ。それがマッサージなわけあるか?取材だよ、取材!」
透はさも真面目な顔で言い放つ。「俺が洗い流してるのは、これまで歩んできた人生の泥濘だ。揉みほぐしてもらってるのは、時間に削られた尖った角と、積み重なった不幸なんだよ」
「いや、どう聞いてもマッサージでしょう。それに今のあなたの足に、感覚なんてあるんですか?」
「先生は、ああいう店、行ったことあるか?」
悪徳医師は首を振った。
透は松葉杖に両手で体重を預け、空を仰ぐ。「最初は、ありふれた夜だと思ってた。あの子がスーツケースを提げて俺の前に立って、『初めまして、お客様。168番です。本日はよろしくお願いします』って言うまではな」
「優しい声でそう言われて、死にかけだった俺の心に、ほんの少しだけ、生きている安らぎってやつが戻ってきたんだ」
「彼女にはフラれ、親父は失踪、お袋と弟は家を乗っ取ろうとしてくる。親戚からは、みんな冷たくあしらわれた」
「ただ、168番だけは違った」透は、ふう、と長い息を吐いた。「あの子のところにいる時だけは、この冷え切った社会でも、まだ俺をちゃんと見てくれる誰かがいるって感じられたんだ」
「俺の人生なんて、誰かに気にかけられる価値もない。でも、あの子は違った」
「俺のことを気にかけて、大事にしてくれて、俺の身の上を心配して、あの子自身の話もしてくれた」
「多くの客にとって、あの子の仕事は、正月に実家に帰るための往復切符だったり、厳しい冬を越すためのダウンジャケットだったり、末期の病に侵された母親、ギャンブル狂いの父親、就学する弟、そしてズタボロになったあの子自身だったりするんだろう」
「でも俺にとっては、あの子はある意味で、唯一の存在だったんだ」透はうつむき、手の中の死亡診断書を粉々に引き裂いた。「先生、俺が助けなくて、誰があの子を助けるんだよ?」
秋風は俺の心を知るように、優しく、そして深く。
恋心は鐘の音と共に始まり、鐘が鳴り止んでも、この想いは止まない。
「悪いな、先生。もう治療は受けない。これからは、俺自身のために生きることにするよ」
透はひらひらと手を振ると、タクシーに乗り込み、家路についた。
数年前、実の母親が事故で亡くなり、父親は後妻を迎えたかと思うと酒とギャンブルに溺れ、多額の借金を残して謎の失踪を遂げた。
それに加えて、恋人にフラれ、継母と義弟とのいざこざだ。彼がよほど達観していて、自己調整能力が高くなければ、真っ赤な心臓もとっくにどす黒く染まっていたことだろう。
そして、今。
「家を売ってローンで治療? そんな金、お前らにやるくらいなら全額寄付してやるっつーの!」
ソファに腰を下ろし、筋肉の痛みが和らぐまでしばらく休んでから、透はどうにかグラスに水を注いだ。
その時、「ピピッ」とポケットのスマホからアラームが鳴り、壁の時計に目をやる。
18:00。
透は慌ててスマホを取り出し、アイコンが二次元の白髪美少女になっているアプリをタップした。
そう、彼はオタクである。
【七日間のカノジョ、ロード中……】
【セーブデータを読み込んでいます……】
ゲーム画面が浮かび上がる。真っ暗な背景に、血のように赤い、不規則なフォントの文字が表示された。
【あなたのカノジョは死亡しました】
透は思わず息をのんだ。「は……?マジで七日目に死ぬのかよ。何のフラグもなかっただろ?」
『七日間のカノジョ』。
一週間前、突如として彼のスマホにインストールされていたゲームだ。
最初、樋口透はウイルスか何かだと思ったが、自分の6桁のパスワードで守られている預金残高が、小数点を入れてもやっと5桁しかないことを思い出した。
試しと、この謎のゲームを起動してみたのだった。
見た目は『暴食の姫君』、ゲームシステムは『妹こねくしょん』、基本は『夏休み狂想曲』で、メインシナリオは『借金まみれの俺、家出JKを拾う』ってとこか。
いまいち確信は持てなかったが、このクソゲーをこき下ろしてやろうと意気込んでいた透は、このいかにもなエロゲが、予想外に高いクオリティであることに気づかされた。
ドット絵で描かれた世界は、財閥だらけの、ありがちな乙女ゲー的俺様ワールド。
画面上のほぼ全てのオブジェクトにインタラクトでき、ゲーム内の時間は現実と同じように流れる。ヒロインは、樋口透がタイピングした内容に応じてリアルタイムで返事をしてくるため、まるで本当に人間とやり取りしているかのようだった。
ゲームの紹介によれば、カノジョは七日間のうちに何度も死の危機に瀕するという。透は細心の注意を払ってプレイし、確かにそれらの危機をどうにか乗り越えてきた。
だが、操作不能となる最後の七日目の夕暮れ、カノジョは理由も分からず死んでしまった。
「あいつを生かすために、わざと好感度下げるプレイまでしたってのに、何の予兆もなく死ぬなんて……これ、もしかして強制死亡イベントか?」透は呆れつつ、【ニューゲーム】をタップした。
【プレイヤーがゲームモードを理解したことを確認。没入型ディーププレイモードを開始しますか?】
【このモードでは、プレイヤーの自由度が向上しますが、それに応じて難易度も上昇します】
今まで見たことのない選択肢に、透は一瞬固まった。
「これ以上、自由度が高くなるのか?」
彼は【はい】を選択した。
【キャラクターの性別を選択してください。ディーププレイモードでは、性別は一度しか選択できません】
「ふざけんな、カノジョ育成ゲームだぞ?女の子を選ばないで、イケメンのお兄さんを選んでガチムチファイトでもしろってのか?」
【性別:女】
【確認しました】
【二周目に入ります……】
【注:死亡してやり直すたびに、一周目としてカウントされます】
【オートセーブに成功しました……】
文字が浮かび上がり、透がスマホの画面を凝視していると、不意に頭がぐらりとした。
ドン、という音を立てて、彼はリビングのソファに倒れ込んだ。
……
「いっつ……!頭痛ぇ……なんだ、今のは?」
透が再び目を開けると、ひどい目眩がした。リビングは見慣れたリビングで、ソファもいつものままだ。握りしめていたはずのスマホが手元にないことを除けば。だが、透が何より先に感じたのは、身体にみなぎる圧倒的な活力だった。
ALSが末期に差し掛かり、彼の体はどんどん弱っていた。松葉杖を使っても、せいぜい短い時間歩けるだけで、何度も休憩を挟む必要があった。それなのに、今は……
「俺の体、治ってる……!?」
喜びの声は、途中で不自然に途切れた。
透は目を丸くし、恐怖にかられて自分の薄い唇を手で覆った。
「待てよ、なんか……おかしいぞ」
慌ててうつむくと、わずかに起伏した“胸筋”のせいで、かろうじてつま先が見える程度。ぱっと開いた五指は、繊細で長く、肌は白く滑らかだ。
透は何かに思い至り、すぐそばのテーブルにあった鏡をひっつかんだ。
鏡に映っていたのは、病のせいで生気なくやつれていた少年ではなかった。
整った顔立ちに高い鼻筋、そして意志の強さを感じさせる顔つきの、ショートボブの少女。ワインレッドの髪は高い位置でポニーテールに結われ、毛先が軽くカールしている様は、活発で小気味いい。
夕焼けのように色を失っていたはずの瞳の上で、長いまつ毛が絶え間なく震え、鏡の主の心の動揺を物語っていた。
女の子になってしまった。
だが、それ以上に興奮すべきは、この生命力に満ちた健康な体だ!
「待て、これってもしかして、あのゲームのせいか?」
透は、いつの間にか床に落ちていたスマホを急いで拾い上げ、目を凝らす。一ヶ月もの間、彼女の相棒だった『七日間のカノジョ』のアプリは、跡形もなく消えていた。
ふと、ある考えが脳裏をよぎり、彼女はそっと呟いた。「ゲーム終了?」
【ゲームを終了しますか?】
【はい/いいえ】
目の前に、ゲームシステムの仮想スクリーンがポップアップした。どうやら、本当にゲームの中に転移してしまったらしい。
「このゲーム、ただものじゃねえな!」
透はゴクリと息をのんだが、心の悸きは抑えきれなかった。
どちらにせよ、このゲームは、死にかけていた彼女に、束の間の第二の人生を与えてくれたのだ!
視線を動かすと、再びゲームシステムがポップアップした。
【初心者ミッション:『七日間のカノジョ』を救い出し、家に連れて帰る】
【報酬:所持金+6000、現実世界の体力+1】
報酬の内容を見て、透は「すくっ」と立ち上がり、目を見開いた。
このゲーム、現実に影響を及ぼすのか!?
透の呼吸が荒くなる。
自分には、まだ生き延びる希望があるというのか!
深く考える間もなく、システムは最初のミッションへのルートガイドを表示した。
向かう先はとある路地裏。前の周回と同じように、あのおどおどした可愛いヒロインを拾うのだ。
ゲームの報酬が本物かどうかを確かめるため、透は二の句を告げずに部屋を飛び出した。
ほどなくして、システムの案内に従い、真っ暗な路地の入り口へとたどり着く。
路地の入り口で、ボロボロの白いワンピースを着た、灰白色の長い髪の少女が、慌てた様子で路地裏へと駆け込んでいく。
その瞬間、透は、怯えに満ちた少女の瞳と視線が合った。
路地裏に入ると、少女は薄暗いゴミ箱のそばにうずくまり、頭を垂れて、小刻みに体を震わせていた。
ゲームのヒロイン、綾辻依(あやつ じより)!
やはり、前の周回と同じように、路地裏で助けを待っている。
ゲームで見た、彼女の甘くか弱い姿を思い出し、透は思わず歩を速めた。
三歩を二歩で駆け寄り、綾辻依の目の前まで行くと、そっと肩を叩いた。
「あの、大丈夫……?」言葉の途中で、目の前の少女が、はっと顔を上げた。
乱れた灰白色の前髪の下から、血のように真っ赤な瞳が、じっと透を見据えている。
その震える小さな手には、果物ナイフが握りしめられていた。
「ぐっ――!」
胸に鋭い痛みが走り、果物ナイフが、心臓のあたりまで深く突き刺さっていた。
透の瞳孔が収縮する。目の前には、同じように恐怖に目を見開く少女の顔があった。依はよろよろと後ずさり、その瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
何が何だか分からなかった。どうして前の周回とシナリオが全く違う? なぜこのヒロインは、自分を殺そうとする?
体から徐々に力が抜けていく。ぼやけていく視界を、ゲームシステムの表示が覆い隠した。
【あなたは死亡しました……】
【セーブデータを読み込んでいます……】