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第01話:聞こえてしまった名前
「取りやめることにしました」
月宮(つきみや)美咲(みさき)は、携帯電話を握る手に力を込めた。受話器の向こうで、夜刀(やとう)巌心(がんしん)が静かに息を吐く音が聞こえる。
「美咲さん……」
老人の声には、深い同情が込められていた。美咲は唇を噛み締める。この優しさが、今の自分には辛すぎた。
「海外留学の準備を進めております。暁斗(あきと)さんには、まだお話ししておりません」
「分かりました。何か埋め合わせを……」
「お気持ちだけで十分です」
美咲は静かに電話を切った。
――あの夜のことだった。
手術は成功だった。医師の言葉を聞いた瞬間、美咲の心は希望で満たされた。聴力を完全に失うリスクを冒してまで受けた鼓室形成術。それは、暁斗に愛されるための最後の賭けだった。
補聴器をつけたまま、美咲は暁斗の帰りを待った。驚かせたかった。健常者になった自分を見せて、彼の心を振り向かせたかった。
玄関のドアが開く音。
「お帰りなさい」
暁斗は酒の匂いを漂わせながら、美咲を見つめた。その瞳に宿る感情を読み取ろうとして、美咲の胸は高鳴る。
「美咲……」
彼は美咲をソファに押し倒した。強引なキスが唇を塞ぐ。いつものように、暁斗の手が美咲の補聴器に伸びる。
カチリ。
小さな音と共に、世界が静寂に包まれる。いや、包まれるはずだった。
彼の吐息が、ある名前を囁いた。
「みかげ……みかげ……」
回復したばかりの聴覚は、どんな些細な音も拾ってしまう。その囁きに、美咲の全身は凍りついた。
暁斗が補聴器を外していたのは、この名前を心置きなく呼ぶためだったのか。
美咲は動けずにいた。暁斗の重みを感じながら、彼のスマートフォンの画面が光るのを見つめていた。通知が表示される。
『妖月(ようげつ)美影(みかげ) 離婚成立 来月帰国予定』
全てが繋がった。暁斗が荒れていた理由。彼の心が向かう先。
――昔のことを思い出す。
美影に振られて自暴自棄になった暁斗。命知らずのスポーツに没頭する彼を、美咲は必死に支えた。深海ダイビングでの事故。酸素が足りなくなった暁斗に、美咲は自分のレギュレーターを渡した。
「これからは君を大切にする。愛せるように、努力するから」
病院のベッドで、聴力を失った美咲に暁斗は約束した。婚約指輪を差し出しながら。
でも、その約束は果たされることはなかった。
美咲は静かに立ち上がった。もう悲しむ暇もない。語学の勉強を始めよう。海外で、新しい人生を築くために。
補聴器を手に取る。もう、これは必要ない。
全てを捨てて、彼女は歩き始める。過去を振り切って、誰も知らない場所へ。