詩織はスマホを手に取った。
「ちょっと出かけてくる。誰にも言わなくていいわ。すぐに戻るから」
「では若奥様、気を…」
斎藤さんの言葉が終わらないうちに、彼女の姿は病室の入口から消えていた。
彼女は事故があったケーキ店へ向かった。
警察は昨日事故認定書を発行し、中島が彼女の代わりに店主と賠償について協議している。
詩織がその店に入ると、店内のほとんどは爆発時のままの状態だ。
店主は若い男性で、掃除をしている。
「うちは閉店ですよ。会員カードの返金なら、明日また来てください」
男性は顔も上げずに言った。
「ちょっと見に来ただけ」
詩織は否定した。
男性が振り向いて彼女を見た。
爆発が起きたとき彼は店にいなかったので、詩織のことを知らなかった。
詩織は床の血痕を指さして言った。
「あの時、私はここに倒れていたの」
驚いた男性は何度も頷きながら付け加えた。
「ご自由にどうぞ」
この店は開店してから3ヶ月も経っていなかったが、味は本当に良かったので、詩織は会員になり、一日おきに店に来てケーキを買っていた。
あの日の午後、ドンという音とともに、彼女は死の淵に送り込まれた。
意識がかろうじて残っていた瞬間、彼女は彰人に電話をかけたが、彼は出なかった。
この数日間、彼女はこの危険な体験を思い出したくなかったが、ここに立ち、手がかりを探し、事故ではない証拠を見つける必要があったため、必死にあの過去に向き合うことにした。
しかし、事件の経過を時系列に並べてみると、足元から寒気が湧き上がってきた。
彰人に電話したとき、彼はまだ搭乗していないはずだったのに、最終的に自分を医療チームに託し、オールボーへ行った。
どっちの方が大切なのか、もうとっくに明らかだ。
今回彼が自分のために留まることを約束したとしても、心はとっくにあの女のもとへ飛んでいってしまっている。
詩織の瞳が暗くなった。
「あのアルバイトがなぜ店内でカセットコンロを使って、インスタントラーメンを作ったのか、まったく分かりません。禁止されているはずなのに」
若い店主は自分が巻き込まれたと感じていた。
しかし詩織は我に返った。カセットコンロの威力はそれほど大きくないはずだ。
「それで、事件の後、そのアルバイトの人は?」
「はぁ…うちの店に応募したとき、偽物の身分証明を使ってたんですよ。あの事件の後、すぐに逃げました。おそらく賠償金を払うのを恐れたんでしょうね」
「あの、奥さん」
店主はこのチャンスを逃すまいと言った。
「私はまだ起業したばかりで、開店資金は両親が工面してくれたものです。元手も回収できていないのにこんなことが起きて、賠償金についてはご配慮いただけないでしょうか。うちは本当にそれ以上の余裕が…」
詩織は彼の言葉に答えず、床の破片の中から手がかりを注意深く探した。
しばらくして、彼女はありふれた電池の残骸を発見した。
専門知識のない人にとっては、ただのゴミだ。
しかし彼女はかつて材料工学の優秀な学生だった。彰人と結婚して専業主婦になった後も、ここ数年は新エネルギー電池開発の最先端研究報告を欠かさず読んできた。
彼女は一目でこれが特殊な高エネルギー電池の燃焼残骸だと分かった。不安定なため爆発力が極めて大きく、研究室での開発過程で放棄されたものだ。
中の材料配合比を分析すれば、どこから来たのか、誰が関わったのかも突き止められる。
そうすれば、誰が彼女を殺そうとしたのかという答えが出るはずだ。
「あなたの店で買い物をしているのに、私の安全を保証できなかった。人を見る目がないくせに、同情して賠償を免除してほしいなんて。理由もなく痛い目に遭った私はどうするの?」
店主は詩織の言葉に何も答えられなかった。
詩織は集めた電池の破片を包み、ケーキ店を出た。
車に着くと、近くの黒いSUVの中から、視線が彼女を捉えていた。
直感が危険を察知し、詩織はちらりとその不安を覚える車を見た。彼女は冷静を装って車のドアを開け、運転席に座った。
自分が死ななかったから、向こうも諦めていないのか?
それとも、向こうは彼女が手がかりを見つけたと推測し、口封じをしようとしている?
あるいは、自分の考えすぎか?
詩織はシートベルトを締め、気持ちを落ち着かせてエンジンをかけた瞬間、バックミラーに映ったSUVも起動した。
アドレナリンの上昇による焦りを抑え、ゆっくりと車を車の流れに乗せた。
本来なら病院に戻るべきだったが、彼女は方向を変え、車を辰川グループに向けた。
詩織の考えは単純だ。彰人がそこにいる、彼なら自分を守ってくれる。
しかし、交差点を過ぎたところで前方で事故が発生した。
そして後ろを追いかけていた黒いSUVがスピードを上げて迫ってきた。
詩織は理解した。彼らは自分が彰人に会いに行くのを阻止しようとしている。
他に方法がないので、彼女は再び方向を変えた。
遠回りして辰川グループに行くには、海岸沿いの道を通る必要がある。
詩織はアクセルを踏みながら、震える手で彰人に電話をかけた。
「おかけになった番号は、電源が入っていないか…」
頭の中、ドンという音がしたようだ……詩織の爪がハンドルに食い込み、頭が真っ白になった。
彰人のプライベート番号なら、24時間電源が切れることはない、ただし……
後続車に尾行された中、彼女は急いで中島正人の番号を探した。
中島は会議中で、しばらくしてから電話に出た。
詩織はバックミラーを見ると、相手が斜め後方から追いついてきたので、ハンドルを強く握りしめた。
中島は彼女が福田社長が出かけたことに気づいて、責めようとしていると思った。
だから電話に出るとすぐ説明した。
「若奥様、西村先生から急に電話があって、福田さんの容態が危険だと言われて、もう手に負えないと。だから社長が急遽オールボーに行くことにしたんです。でもすぐに戻ると……」
中島の言葉が終わらないうちに、通話が切れた。
彼は詩織が怒ったのだと思い、深呼吸して独り言を始めた。
「これじゃ社長が戻っても、相当の誠意を込めて謝らないと、若奥様の機嫌は直らないだろうな」
詩織はSUVの激しい衝撃を受け、車体が激しく揺れ、ハンドルがほとんど手から離れそうになった。
彼女は車がおもちゃのように道路から弾き出され、ガードレールを突き破り、最後に海に転落するのを感じた。
突然、周囲の世界が静かになった。
車はゆっくりと沈み、ひび割れた窓が海水の圧力に耐えきれずにカチッと音を立てた。
詩織は息を切らしながら、世界が彼女に残してくれた最後の光景を目に焼き付けようとした。
そのとき、誰かが彼女の車のドアをノックした。
詩織はようやく気づいた。隣の水中に人がいる。
相手は小型の呼吸器をつけていて、顔ははっきり見えなかったが、シートベルトを外すよう合図していた。
詩織はためらうことなく、冷静に従った。
準備ができると、相手は道具で窓を強く叩いた。
塩辛く冷たい海水が巨大な衝撃力とともに瞬時に車内に流れ込み、詩織の鼻や口にも入り、視界がぼやけた。
しかし同時に、相手は彼女の手をつかんだ。
抵抗できないほどの強い力で、彼女は沈んでいく車から引き出された。
その後、冷たい海水が振り払われ、太陽の光が彼女の目を開けられないほど照らした。
彼女は岸に救い上げられた。
「村上さん…」
誰かが前に出て、彼女を救った男にタオルを素早く渡した。
詩織が顔を上げると、ずぶ濡れの黒い服が体にぴったりと張り付き、力強いシルエットを浮かび上がらせた男がそこにいた。
彼の容貌を見る必要も、彼の家柄を知る必要もなく、その背中だけでも、人を圧倒する気品を持つものだと分かる。