第02話:悪夢の中の真実
暗闇の中で、詩織は必死に走っていた。
「詩織!そんな男と結婚するなんて、正気じゃない!」
母の怒声が背後から追いかけてくる。
「あの男の正体を知らないのか!」
「やめて……」
詩織は両手で耳を塞いだ。でも声は止まらない。
「君の両親は間違っている」
突然、優しい声が聞こえた。振り返ると、5年前の怜が立っている。
「詩織、君は俺がこの世で一番愛する人だ。君のために、星にまで君の名前を付けたんだ」
ブリタニア王国の天穹命名機関から届いた命名証書。『Shiori』と名付けられた小さな星。あの時は本当に幸せだった。
「怜……」
詩織が手を伸ばそうとした瞬間、景色が一変した。
「本物の影宮の女主はこの私よ!」
彩霞の声が響(ひびき)く。美しい女性が怜の腕に飛び込んでいく。
「詩織なんて偽物よ。怜は最初から私のものだったの」
怜は振り返りもせずに彩霞と歩き去っていく。
「待って!怜!」
詩織の叫び声が虚空に響いた。
「きゃあああああ!」
詩織は悲鳴を上げて飛び起きた。全身が汗でびっしょりと濡れている。
「詩織?大丈夫か?」
隣で怜が心配そうに身を起こした。優しい手が詩織の肩に触れる。
「夢……夢だったの」
詩織は荒い息を整えながら呟いた。でも、夢の中の恐怖は現実の記憶と重なって、胸を締め付ける。
「また悪夢か。最近多いな」
怜が詩織を抱き寄せる。いつもの優しい声。いつもの温かい腕。
でも、もうその温もりを素直に受け入れることができない。
「私……」
詩織の目から涙がこぼれ落ちた。
「私……誰なの?」
「何を言っているんだ」
怜は詩織の頬を拭いながら答えた。
「君は詩織だ。俺がこの世で一番愛する人。それと、影宮の女主だよ」
影宮の女主。
その言葉が、昨日知った真実と重なって詩織の心を刺す。法的には自分は未婚で、怜の妻は夜条彩霞という女性なのに。
「怜、昨日のことなんだけど……住民票の件で」
詩織が口を開きかけた時、怜のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見て、詩織の血が凍りついた。
『彩霞』
「会社で急ぎの用ができた」
怜は慌ててスマートフォンを取り上げると、詩織に背を向けて電話に出る。
「今すぐ行く」
低い声でそう言うと、怜は寝室を出て行った。
詩織は一人ベッドに残され、天井を見つめた。
彩霞。夢の中に現れた女性と同じ名前。偶然のはずがない。
午後、詩織がリビングでぼんやりとしていると、電話が鳴った。
「影宮さんでしょうか。星見の家の院長です」
詩織がボランティアをしている児童養護施設からの電話だった。
「詩音ちゃんのことでお電話したのですが」
詩音。愛らしい6歳の女の子。詩織が実の娘のように愛している子供。
「別の養子縁組希望者の方がいらっしゃいまして。影宮さんご夫妻が詩音ちゃんを迎えるお話はどうなっているのでしょうか」
詩織の心臓が激しく鼓動した。
「すぐに伺います」
電話を切ると、詩織は急いで車に向かった。
星見の家に着くと、詩織は駐車場で車を降りた。施設の建物に向かおうとした時、階段の踊り場に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
怜だった。
詩織が声をかけようと足を向けた瞬間、一人の女性が階段を駆け上がってきた。
美しい黒髪の女性が、怜の胸に飛び込んでいく。
「怜、やっと来てくれた。お願い、詩音を助けて!」
女性の声が詩織の耳に届く。
怜は彼女を優しく抱きしめ、慰めるように言った。
「安心して。娘は他の誰にも渡さない」
娘。
詩織の世界が崩れ落ちた。