夜明け前、宮崎葵はスマートフォンのLINE通知音で目を覚ました。
昨夜、彼女は酔いつぶれた斎藤霞を家まで送り、霞の小さなアパートに泊まり込んでいた。
隣では、霞が枕を抱きしめ、気持ちよさそうに眠っている。
葵はスマホを見た。早朝から、また“おじいさん”からのLINEメッセージだった。
森田輝:おはよう。
「さすが年長者だな、夜更かしもせず早起きで、睡眠時間が短いんだろうな」と葵は思った。まだ6時過ぎだというのに。
彼女は微笑んで返信した。
「おはよう。朝ごはん、忘れずに食べてくださいね」
今日の昼に“おじいさん”に食事を届ける約束をしていたことを思い出した。
思い切ってベッドから起き上がり、霞のキッチンを借りて昼食の準備を始めた。
霞は朝食の香りで目を覚ました。
パジャマ姿のまま、眠そうな目をこすりながらスマホを手に取ると、突然、声を上げた。
「葵!すごいよ、私!昨日飲んだ勢いで近藤主任をうまく丸め込んだみたい!職場の健康診断のプロジェクトをうちの病院に回してくれるって!」
葵はステーキをお皿に盛りつける手を一瞬止め、思い出した。近藤主任とは、昨夜のあの脂ぎった男のこと。自分のあの平手打ちが、彼を黙らせたのかもしれない。
霞は鼻歌まじりに朝食のテーブルに着いた。
「霞、数日後に、あなたの病院で中絶手術を手配してもらえないかな?」
葵は少し躊躇ってから、霞に助けを求めることにした。
医者の不養生とはこのことだ。彼女の妊娠はすでに4週以上経っており、早急な手配が必要だった。
「身内?」
霞は葵が焼いたステーキを頬張りながら聞いた。外はカリッ、中はジューシーで、とても美味しい。
「身内じゃない。私自身のこと」
ぷっ——
霞は牛乳を飲んでいたが、その言葉を聞いて吹き出してしまった。「松本彰人の子?なんで中絶するの?これを機に一緒になればいいじゃない。知らなかったわ!私があなたたち二人の仲人になるから。結婚するなら、大きなご祝儀もらわなきゃね。だって、あの個室映画館も私があなたに…」
「彰人の子じゃないの。あの夜、混乱したまま見知らぬ男と寝てしまったんだ」
がちゃん——
霞は一瞬で石化し、手に持っていたナイフを床に落とした。「なにっ!?」
朝食後、葵は出勤した。
制服に着替えて出てくると、二人の若い看護師がひそひそ話をしているのが見えた。
「さっき松本先生と一緒にいた宮崎由紀さん、松本先生の彼女なのかな?二人、すごく仲良さそうだったよ」
「あれは女性ボランティアよ。まだ大学生だって。松本先生の紹介で来たらしいわ」
「薬局の宮崎看護師が松本先生の彼女だと思ってたのに、違うんだ」
「松本先生は若くて優秀だもの。私たちみたいな看護師なんて、眼中にないわよ」
葵が近づいてくるのを見て、二人の看護師は口をつぐんだ。
由紀が病院でボランティアを始めたのは、彰人の手配によるものだった。
この話を聞いた時、悲しくなるかと思いきや、心の奥底でわずかに不快感を覚えただけで、以前よりはるかにマシだった。
朝早くから薬局は忙しかった。
葵の窓口には長い列ができていた。その時、一人の人物が列の先頭に割り込み、処方箋を差し出した。
「葵ちゃん、この前もらった薬が切れちゃったから、もう少し出してくれない?」
話しかけてきたのは、30代前半の整った顔立ちの中年の美しい女性で、どこか松本彰人に似ていた。彰人の母親、松本瑠衣(まつもと るい)だった。
「おばさん、割り込みはやめてください」
後ろから不満の声が上がった。
「誰が割り込みなんかしてるって?知り合いにお願いしてるだけよ。息子はこの病院の医者だし、薬を出してる宮崎看護師は息子の彼女なんだから」
瑠衣は得意げな表情を浮かべた。
瑠衣は二人の子供を産んでから体調を崩し、常に薬を服用していた。
後に彰人が葵と出会い、家に連れて帰った時、葵は自分の母が昔漢方医だったことを話し、体調を整える薬の処方を残していると言った。
瑠衣はそれを7、8年飲み続け、体調が良くなり、顔色も良くなって若々しくなった。
聞けば、その薬は一服2万円もし、一日おきに飲む必要があった。
瑠衣は自腹で調合するのを惜しみ、葵に調合して届けてもらっていた。数年分を飲み続けながら、一銭も支払ったことがなかった。
ここ数日、薬が切れていたが、葵がまだ新しい薬を持ってきていないので、瑠衣は自分で来ることにした。
瑠衣の当然のような態度に、葵は言葉を失った。
以前、葵が瑠衣に薬を届けていたのは、彼女が彰人の母親で、将来の姑として敬っていたからだ。瑠衣に多少甘えられても、葵は我慢していた。
しかし今、彼女はもう彰人を愛していない。それなのに、なぜ彼の母親に尽くさなければならないのか?
「松本おばさん、お並びください。ここは病院です。誰かが苦情を言えば、松本先生にもご迷惑がかかりますよ」
葵は後ろの長い列を見て、我慢強く諭した。
息子のキャリアに影響すると聞き、瑠衣はしぶしぶ列の最後尾に並んだ。
30分後、ようやく瑠衣の番が回ってきたが、窓口には別の担当が立っていた。聞けば、葵は上階のVIP病棟に薬を届けに行ったという。
「葵って本当に思いやりがないわね。私が来たって知らないの?彼女を呼んで、薬を持ってきてもらいなさいよ」
瑠衣は怒りを抑えきれず、窓口から動かず、葵を呼ぶように要求した。
「奥さん、お引き取りいただけないなら、警備員を呼びますよ」
担当の看護師は不機嫌そうに言った。
その声に気づいた由紀が、ボランティアの腕章をつけて近づいてきた。
瑠衣を見たとき、服装は違っていたが、由紀は一目で彼女を認識した。
夢の中で、姉の葵の姑を見たことがあった。あの時の瑠衣は貴婦人のような風格だった。
葵によれば、彼女の姑はとても気さくで付き合いやすい人だったという。
「彰人のお母様、本当にお若く見えます。私のあの短命な姑よりずっと素敵な方。私が男だったら、迷わずお母さんを選びます」
由紀は覚えていた。松本彰人は孝行息子で、葵の結婚生活が幸せだったのは、良い姑に恵まれたからだ。
彰人に受け入れられるには、まず瑠衣に気に入られなければならない!
「瑠衣様のご機嫌を取るためなら、このくらいの出費は何でもない。将来、富豪の妻になることを考えれば、九牛の一毛だ」
由紀は内心でほくそ笑み、前に進み出た。
「おばさん、こんにちは。何かお手伝いできることはありますか?」
一方、葵は瑠衣の相手をしたくなかったため、ちょうどVIP病棟で急な薬の需要があったことを口実に、その場を離れた。
エレベーターホールで、高橋健太が秘書の近藤雅也(こんどう まさや)を待っていた。
「社長、朝食です」
近藤は小走りに近づき、買ってきたばかりの朝食を渡した。普段は朝食を食べない社長が、今日に限って朝食を買ってくるように頼んだのが不思議だった。
「じいさんにうるさく言われたくないからさ」
健太は“おじいさん”に朝食を食べるように言われたことを思い出し、サンドイッチを一口大きくかじりながら、近藤が渡した書類を受け取った。
高橋昭雄は高齢で現在は半引退状態だったが、高橋グループは彼が一から築き上げた会社であり、重要な書類はまだ昭雄のサインがなければ有効にならなかった。
「社長、後で看護師に顔の傷の手当てをしてもらうのをお忘れなく」
エレベーターのドアが閉まりかける時、近藤が一言添えた。
社長の様子では、昨夜もまた誰かと喧嘩したに違いない。副社長が知ったら、また大騒ぎになるだろう。
健太は自分の顔の傷に触れた。昨日、瓶を振り下ろした時に力加減を誤り、ガラスの破片が顔に当たったが、大した傷ではなかった。
エレベーターがカンと音を立てて開き、中には一人の人物がいた。
葵が数箱の薬を抱えてエレベーターに入ろうとした時、健太と目が合い、二人とも一瞬固まった。
葵は数日後の中絶手術のことを考えていた。健太を見ると、なぜか罪悪感を覚え、エレベーターに入ろうとした足を引っ込めた。
背後では、エレベーターのドアが彼女の足を挟もうとしていた。
「危ない!」
健太は手を伸ばして葵を引き寄せた。力が強すぎて、葵は彼の腕の中に引き込まれ、硬い胸にぶつかった。
葵が彼の腕の中に飛び込んできた時、健太は眉をひそめ、押し返そうとしたが、彼女の柔らかな身体に触れた瞬間、心に波紋が広がった。
葵も固まってしまった。
過去の記憶が彼女を襲った。
映画館での夢、汗で光る男性の筋肉。あの時、いくつの筋肉を数えただろうか?
我に返った時、彼女の両手はすでに健太のシャツの上にあり、無意識に触れていた。
「触り終わった?まだ僕に興味がないって言うの?え?」