「暗夜」のオーナーは、桐城で最も謎めいた存在。かつて首富の令嬢だった美咲ですら、その正体も知らなかった。
――けれど、ほんの少し気になって、足をわざとゆっくり運んだ時だった。紬のスマホから、冷ややかで澄んだ男の声がかすかに漏れ聞こえてきた。内容までは分からない。だが性別だけははっきりした。
男性だった。
しかも声の響きは若い。
*
休憩室のドアが開き、紬が複雑な表情で出てきた。ドアの外でいかにも従順そうに待っていた美咲と目が合う。「……帰りなさい」
「え?じゃあ、わたし……お酒を届けに?」美咲は首をかしげた。
だが、紬の険しい顔色に、ただ事ではない気配を察する。
予感は、やはり的中した。
「届けに行く必要なんかない!」紬は彼女の胸元のネームプレートを乱暴に引きはがす。「アンタはクビよ。さっさと出ていきなさい!」
「ク、クビ……?」
美咲の笑みが少しずつ消え、顔がこわばる。「花子さん、わたし、いったい何の失敗を……?」
「そんなの知らないわよ!」紬自身も混乱していた。ほんの数分前、あのオーナーから電話がかかってきて――彼女に美咲を解雇するよう命じたのだ。理由を尋ねれば、返ってきたのは「本人に聞け」の一言。
「いったい誰を怒らせたら、あの人自らが動くのよ……?」
考えるだけで背筋が凍る。
「アンタ、自分で思い出しなさい!誰を敵に回したのか!」紬の声が次第に怯えを帯びる。「とにかく、二度とわたしに連絡してこないで!」
「花子さん……」美咲の顔色も変わっていく。
まさか、一瞬で職を失うなんて。
「わたし、本当に必要なんです。この仕事……誰も怒らせてなんか――」
「いいから出ていけって言ってるの!」
紬は一切取り合わず、すぐに保安員を呼んで美咲を外へ追い出した。
煌びやかなネオンが瞬く「暗夜」の正門前。制服を脱ぎ捨てられ、手に抱えた私服だけが頼り。美咲は茫然と立ち尽くした。華やかな光の中で、彼女の頬はわずかに青ざめている。
――もう月末が迫っている。
弟の京極彰(きょうごくしょう)の透析費用、父の来月分の介護費用も、まだ用意できていない。
彼女は唇を噛む。
誰を怒らせたというの?いったい誰が、わたしを徹底的に追い詰めようとしているの?
*
――その頃。
窓際のソファに置かれたスマホが鳴り、白く長い指がすっと拾い上げた。
「もしもし?」
「篠原さん、あなたに借りができましたね。トップ嬢を一人失ったんですから」
電話口の声は冷ややかだった。
篠原青斗は窓辺に立ち、夜景の灯を見下ろしながら小さく笑う。「感謝するよ。明日、食事をご馳走しよう」
一瞬の沈黙。やがて低い声が問いかける。「たかが一人の女に、なぜそこまで徹底する必要がある?」
「ん?」青斗の唇が嘲るように弧を描く。「だって、昨日あいつ、私のことを罵ったからさ」
受話器の向こうで、相手が一瞬言葉を詰まらせる。「……病気か」
ぷつり、と通話は切れた。
そこへ白石杏が牛乳を手に入ってきた。窓辺に立つ青斗の姿が目に映る。
背筋はすらりと伸び、月光を受けてシルエットは完璧なまでに美しい。横顔の線は冷ややかに整い、眼差しは夜景の彼方を見据えている。その口元に浮かぶ微笑は、どこか凍りつくように薄寒い。
――外面は温厚で気品に満ちた紳士。だが、その内側は氷のように冷ややかで残酷。
それでも、彼女は狂おしいほどに、この男を愛してやまなかった。