早森詩織は思わず瞬きをした。どうやら、その言葉の意味がよく分からないらしい。
けれど、理解するのに時間はかからなかった。
『対照組』──この時代で人気のある、視聴者参加型リアルバラエティ番組。
名前の通り、二人を並べて比較するという企画だ。
この番組は現在人気の芸能人とインフルエンサーを「対照組」として招き、芸能人とインフルエンサーの違いを比較するものだった。
有名芸能人と人気インフルエンサーをペアにして、あらゆる場面での違いを見せつける。この時代、芸能人はまだまだ持ち上げられる存在で、それに比べてインフルエンサーは偏見を持たれやすい。
そんな世間の「品定めしたい」という欲望を、番組はこれでもかと満たしてくれるわけだ。
偏見なんてどうでもいい。インフルエンサーにも本気で応援してくれるファンはいる。──もっとも、この身体の元の持ち主はかなり運が悪かった。
確かに彼女には巨大なフォロワー数があった。だが全員アンチ。これがもし「推し」に変わっていたら、とっくに業界トップになっていただろう。
「行きません」
詩織は眉を寄せ、きっぱりと拒否した。
人前で好き勝手に品定めされるのは御免だ。ましてや、この悪評まみれの状態で出たら、火に油を注ぐだけだ。
「何?行かないって?!!!」
山口マネージャーの甲高い声が部屋に響き、詩織はこめかみを押さえたくなった。
「早森詩織、自分の立場をわかってる?あんたはただのインフルエンサーよ、こんなチャンス、芸能人と同じ画面に映れるだけでありがたいのに、断る権利なんてあると思ってるの?」
そう言うと、机にバサッと契約書を叩きつけた。「行かないって言うなら結構。違約金、二億円。払えるならどうぞ行かなくていいわ」
違約金?
言葉は違えど、意味はすぐに察した。
違約金というのは彼女の時代の「契約破りの罰金」だ。
契約が一度結ばれれば、「契約破りの罰金」が絡んでくるのも当然だ。それは彼女にも分かった。
二億円……笑えない額だ。
元の彼女は「炎上商法」で名前は売れていたが、実入りはほとんどない。事務所の取り分が大半で、手元に残るのはせいぜい数十万元。
事務所が大部分を取り、彼女の手元にはほとんど残らなかった。大雑把に計算しても、全部で数十万円程度だった。
ちっ!
厄介ごとまでしっかり引き継いじゃったわけね。
でも、どうしようもない。
でも、人の身体を借りた以上、背負うしかない。
山口は詩織の沈黙を見て、ふっと笑い、声色を柔らげた。
「詩織、これは無理やりじゃないのよ。あんた、自分からサインしたんだから。」
「それに、これはオレンジテレビの看板番組。うまくやれば露出も増えるし、インフルから芸能人へのステップアップだって夢じゃない」
「ほら、早森咲希(はやもりさき)だって昔はネットモデルだったけど、今や大ヒットドラマを次々主演してる。同じ「早森」の姓で、このまま炎上キャラで終わっていいの?」
必死に説得しているが、詩織にはすぐわかった。
正直に言えば──この早森詩織、頭の回転はあまり速くない。ほんの小さな悪事でも、あっという間に叩かれる。けれど、この顔だけは本物だ。
ネット業界はもちろん、美女揃いの芸能界の中でもトップクラスに食い込むほど。
もしもう少し賢ければ、こんな小さなインフル事務所にいるはずがなく、大手芸能プロにとっくに引き抜かれていただろう。
詩織は元いた時代、宮廷医局で下級医官から最高位の首席医官にまで上り詰めた身だ。前朝の権力者も、後宮の女たちも、腹の底が見えない人間ばかりだった。
山口の言葉に多少の本音が混じっていることくらい、彼女には一目でわかる。だが──それをそのまま信じるほど、甘くはない。
だが、二億円という現実だけは変わらない。行くしかない。
「わかりました。準備しておきます」
「そうそう、そうでなくちゃ。頑張ってね、重要なのは橋本楓(はしもとかえで)を引き立てること。彼女は事務所の推しだから、しっかり立ててあげて。そうすれば、こぼれた仕事が回ってくるかもよ?」
会社を出て、詩織は元の記憶を頼りに借りていたマンションへ戻る。
熱いシャワーを浴びると、まだ身体が馴染まないせいか、軽い倦怠感が襲ってきた。
ベッドに身を投げ、元の彼女の記憶を整理しているうちに、
眠気が一気に押し寄せ、詩織は知らないうちに深く寝てしまった。
***
ピンポーン~ピンポーン~
浅い眠りを破ったのは、けたたましいチャイムの音。
ぼんやりしながらリビングの灯りをつけ、玄関を開けた瞬間──
何人かが雪崩れ込み、黒い物体が目の前に突き出された。
反射的にその物を掴み、力任せに引く。持っていた男の腕をひねり、壁に押し付ける。
流れるような一連の動作。あまりにも速く、誰も止められない。
数声の悲鳴が上がった——
「ちょ、ちょっと!私たち、『対照組』のスタッフです!」
その言葉でようやく昨日の山口の話を思い出した。……ああ、今日が撮影初日だったか。
「すみません、泥棒だと思いました」
手を離すと、押さえ込まれていたカメラマンが、泣きそうな顔で見上げてくる。
同行していたディレクターがにこやかに近づいた。
「詩織ちゃん、放送前にファン向けのオフショットを撮ってるんです。他の出演者も同じですよ」
詩織は一瞬だけその目に走った打算を見逃さなかった。
同じって?
夜明け前の突撃訪問?
詩織は軽く笑みを浮かべた。多分、彼女をわざと困らせて、恥をかかせ、マーケティングのネタにしようとしているのだろう。
「どうぞ、お入りください」
彼女は無理なく、眠い目をこすりながらバスルームに向かった。
「これ、本当に早森詩織なのか?顔が良すぎて、ライブ配信の顔とは全然違うじゃない?」
「化粧師に何かしら恨みでもあるのかな?普段の化粧はネットタレント風で、美顔フィルターでも使ってるみたいだし。でも、素顔のほうが断然強い!」
「彼女、ネットタレントにしては化粧師なんていないでしょ?多分、全部自分でメイクしてるんだろうけど、センスも無いし、実際、この素顔の方がずっと美しい」
二人の女性スタッフは声をひそめ、ささやいているが、その声はすでにライブ放送中の画面に全て録音されていた。
「え?早森詩織?あの拾い物の老婆をいじめたって言う悪名高い女?」
「この番組、出演者がいないの?悪徳姐(お姉さん)なんて呼んで、本当に運がないな!」
「私だけが気付いた?早森詩織、あの動き速すぎない?これ、練習してるでしょ?」
「武道学校に通ってるんだけど、正直言って、もし彼女が泥棒だったら、きっとボコボコにされてるだろうね」