脚が震え、吉田くきはぱっと目を開いた。胸の上に重いものがのしかかっているようで、彼女は大きく息を吸った。
目の前に広がるのは見慣れた暗闇。寝る前に消したアロマキャンドルはもう跡形もないのに、部屋にはまだほんのりジャスミンの香りが漂っていた。
くきはしばらく呆然としたままだったが、「ドン」と何かがベッドに落ちた衝撃で我に返った。慌てて灯りをつけると、鈴ちゃんが物音で起きてベッドに飛び乗り、じっと彼女を見ていた。
「夢だったのか」くきは小さく呟き、ようやく頭が動き出した。
彼女は起き上がり、鈴ちゃんの頭を撫でた。「もう寝ていいよ、ママは大丈夫だから」
だが鈴ちゃんは降りようとせず、彼女の足に身を預けた。
くきはベッドヘッドに背を預け、両手で顔を覆った。呼吸はまだ乱れていて、頭の中では夢の映像がコマ送りのように蘇る。あまりに鮮明で、現実の出来事としか思えなかった。
彼女は目をぎゅっと閉じて、「罪だわ、罪だわ……」と繰り返し唱えた。
きっと日中に酒と田中彰の話をしすぎたせい。寝る前に録音したポッドキャストも彼のことだった。だから夢に出てきたのだ。
ただの夢。真に受ける必要なんてない。
昔お化けは妖怪と三百回戦った夢まで見たことがある。目覚めたとき全身筋肉痛だったけれど、現実にお化けなんているはずがない。
そう自分に言い聞かせ、くきは少しずつ落ち着きを取り戻した。まだ頬は熱く、彼女は洗面所で冷たい水を浴び、鏡の前で深呼吸を繰り返した。
ようやく頭を空っぽにし、ベッドへ戻った。大きな犬のために半分スペースを空け、明かりを消し、布団を引き寄せて目を閉じた。
――だが、眠ったのはほんのわずかに思えた。再びスマホの振動で起こされたのだ。
彼女はイライラして布団を頭からかぶった。誰がこんな非常識な時間に電話をしてくるのか。
「絶対に一言ガツンと言ってやる」歯ぎしりしながら布団をめくり、明かりをつけ、スマホを掴んだ。二十通りの罵倒を用意していた――が、発信者はまたも田中彰だった。
なぜまた?
私は夢の中にいるのか、それとも現実か?
口にしかけた悪態はすべて飲み込み、彼女はしおらしく声を出した。クライアントの社長に逆らえるはずがない。
「もしもし、田中社長。こんな遅くにどうされましたか?」秘書・吉田は恭しく応じた。
「ドアを開けて。会いたい」
「え?」
くきは間を置いて答えた。「冗談ですか?」
「違う。ずっと待っていた」田中彰は真剣だった。
布団を握る手に力が入り、心臓はまた早鐘を打った。さっき整えた呼吸も乱れ、熱でも出たのではと錯覚した。
半信半疑のままベッドを降り、先ほどと同じ手順を繰り返す。リビングを抜け、玄関で立ち止まり、覗き穴を覗いて彼の顔を確認し、ドアを開けた。
携帯を手にしたままの田中がこちらを見ていた。深い黒の瞳は渦のように人を引き込み、端正な顔はすぐ目の前にあった。
次の瞬間、くきは未経験の領域へ引き込まれた。高く投げ上げられ、重く落とされ、揺れ動き、どこにも安定できず、ただ必死にしがみつき、耐えるしかなかった。
声すら自分のものとは思えず、蜜のように甘く滴り落ちそうだった。
――気が狂いそう。どうしてこんなことに?どこから間違えた?相手はクライアントの社長。勝手に弄べる相手じゃない。
目を覚ましなさい、目を……。
そう念じた瞬間、本当に目が覚めた。
呆然と天井を見つめる。世界が回っているようだった。ベッドに横たわっているはずなのに、大海に漂っているかのように。体にはまだ余韻が残り、下腹部は痙攣するほど強張り、疼いていた。
あまりに未知で、あまりに奇妙な感覚。
くきは脚を丸めて叫んだ。「ああ――」
また夢。逃れられない夢。
一晩で似た夢を二度も。しかも二度目は一度目の続きのように長かった。
死にそうな体を引きずり、彼女はシャワーを浴びに行った。お腹の調子が悪く、スマホのメモで前回の生理日を確認する。そろそろだ。
土曜日、仕事はない。スポーツウェアに着替え、鈴ちゃんにハーネスをつけ、散歩へ。ついでに朝食も済ませた。
*
暇になると、夢の光景がつい頭に浮かぶ。もう救いようがない。
目の前のノートPCの資料は誤字だらけ。額を押さえ、ひとまず自分を放置することにして、スマホを手に取り、酒とのチャットを開いた。
小鳥はパクチーを食べない:【酒さん呼び出し中、トゥットゥットゥー】
返事はない。
アイコンを二度タップすると、システムに【「浮光入酒」のセクシーなお尻をポンと叩きました】と表示された。
「……」
酒さんは夜型で、生活リズムが滅茶苦茶。今頃は雷が落ちても起きないはず。
甘粕葉月に連絡しようかと思ったが、彼女は恋愛真っ最中。週末は彼氏とベッタリだろう。邪魔をするのは気が引けた。
結局、道徳心を捨てて酒を叩き起こすことにした。
五度目のコールでようやく酒が出た。
その声は怨念たっぷりで、幽霊のようだった。「重要な用件なら許すけど、そうじゃなかったら、あなたが私のアイドルでも殴るからね。犬もまとめて」
「一晩で同じ男を二度夢に見るのって、どういう意味?」くきは単刀直入に聞いた。「しかも…その種類の夢」
「どの種類?」酒は戸惑った。
恥ずかしくて言えず、くきは言葉を濁した。「その…あの…ちょっと…色っぽい夢」
「春夢のことね」酒は即答した。
「……」
「理由なんて簡単。好きになったからでしょ。知らないふりしないの」酒はきっぱり言ったが、急に言葉を変えた。「あ、もしかして本当に気づいてない?正直言うけど、私たち五年の付き合いで、あなたって恋愛に関して鈍すぎる。恋愛経験ゼロだから、小説にも感情描写がないのよ」
くきは必死に首を振ったが、電話越しでは伝わらない。
「絶対に恋してるよ」酒は断言した。「日中考えたことは、夜の夢に出るんだから」
「……」
――最悪だ。クライアントの社長に不埒な思いを抱くなんて。