「あまりにスリリングだよ!」
吉田くきが体験を語り終えると、酒の目はまん丸に見開かれていた。
「スリリング?」くきは問い返し、しばし思い返してから頷いた。「うん、確かにスリリングだった」
酒は噂好きの心を抑えきれず、スマホを掴んでくきが言っていた人物を検索し始めた。
くきは彼女が検索エンジンに文字を打ち込むのを横目で見て、親切に忠告した。「探しても無駄よ。何も出てこないから」
「そんなはずない」
酒は頑固にSNSを変えながら検索し続けた。
だがしばらくして、ついに諦めた。ネットにある田中彰の情報は本当に少なすぎた。分かったのは、雲瀾グループの傘下に多くの事業があり、有名なのはホテルやショッピングモールくらい。そして彼は一年中各地を飛び回っていて、簡単には会えないということ。
多くの記者が田中彰に取材を試みても、招待状はすべて返事なし。写真すらなく、あるのは正体不明の人が空港で撮った横顔の一枚だけ。それも彼だという人と違うという人に分かれていた。
「小鳥!写真見つけた!」酒は興奮してスマホを差し出した。
そこに写っていた男はサングラスに黒のコート姿。背が高く、比率も完璧で目を引いた。後ろにはエリートたちと屈強なボディガードが従っていた。
「これが田中彰?」
くきは顔の輪郭をじっと見つめ、自分の脳裏に刻まれた映像と重ね合わせていった。やがてぴたりと一致した。「たぶんそう」
「すごいオーラだわ」酒は舌を巻いた。「画面越しでも圧迫感あるよ。小鳥先生、よくもまあ何度も彼の前で命知らずできたね」
くき:「……」
咳を二つして、公平な言葉を口にした。「実際はそこまで怖くないよ。むしろ接しやすいと思った」
「本当?」
「嘘ついてどうするの」
くきは指で画面をスクロールし、コメント欄を見た。
【どこのホスト?指名するわ!お金ならある!】
【モラルはどこ?底線はどこ?尊厳はどこ?住所はどこ?連絡先はどこ?】
【視力悪いなら眼科行け。ホストにこんな威圧感あるか?】
【田中家の人らしい。以前ビジネスパーティーで一度見たことがある】
【すげーな】
【私はウェイターでした】
【やっぱり、誠実さは最強だな】
――ホストて……
くきの脳裏に田中彰の顔が浮かび、すぐに頭を振った。これ以上コメントを見るのはクライアント社長への冒涜だった。
*
酒の家で焼肉とスパークリングワインを楽しんだあと、くきは鈴ちゃんを連れて帰った。
自分の住むマンションまでは歩いて40分ほど。犬の散歩にはちょうどいい距離だった。
帰宅後、玄関でウェットティッシュを取り出して鈴ちゃんの足を拭き、チキンジャーキーを与えた。「食べたらお利口に寝るんだよ。明日の朝また外に行こうね」
髪をざっくり結び、バスルームへ直行してシャワーを浴びた。
出張が短かったため、荷物を片付ける必要もなかった。ノートPCを寝室に持ち込み、素早く原稿を書いてポッドキャストを録音し、プラットフォームにアップロード。時計を見るとすでに23時。PCを閉じ、そのまま倒れ込むように眠りについた。
不眠症なんて、彼女には無縁だった。
――だが夜半、音に起こされた。真っ暗な中、ベッドサイドで光るスマホの画面が目に突き刺さり、ブンブンという振動が響いていた。
くきは眠そうに唸り、目を細めてスマホを取った。数秒後、ようやく着信の名前を確認した――田中彰。
田中彰???
田中彰!!!
眠気は一瞬で吹き飛んだ。肘をついて体を起こし、充電ケーブルを外した。寝起きで喉が渇いていたので軽く咳払いをし、声を整えた。「もしもし、田中社長?こんな深夜にどうされました?」
出る前に時間を見た。午前2時43分。
どうして彼が自分の番号を知っているのか、考える余裕もなかった。
「どこにいる?」電話口の声は低く沈み、鼓膜をくすぐった。
くきは電話を持つ手を替え、むずむずする耳をこすった。少し戸惑いながら答えた。「……もちろん家にいます」
「ドアを開けて」
深夜の静寂に響く彼の声は、まるで妖狐のように甘く惑わせた。
くきは固まった。「今ですか?」
こんな時間に彼が家の前に?大阪から帝都に飛んできたのか?でもなぜ?理由は浮かばなかった。
心臓が速く打ち、彼の「うん」という肯定を聞いた瞬間、呼吸が止まった。彼女は震える手でテーブルランプをつけた。暖かな光が部屋を満たす。鈴ちゃんを起こさないよう裸足でリビングを抜け、玄関へ向かった。
混乱した頭を抱え、熱く火照った顔を両手で擦った。それでもわずかな警戒心を残し、まずはドアスコープから外を覗いた。確かに田中彰だった。
白い顔立ち、くっきりとした眉目。鼻筋の脇の小さなほくろが独特の魅力を添えていた。唇の色は淡く、病人のように見えた。
深呼吸し、覚悟を決めてドアを開けた。
黒いシャツ姿の田中彰は、青白い顔をさらに際立たせていた。襟元からのぞく肌とのコントラストが鮮明で目に刺さる。くきは口を開き、不自然な声を出した。「田中社長、どうされたんですか?」
「田中社長と呼ぶな」
そう言いながら彼はドアの隙間から滑り込んできた。くきは後ずさりし、ドアが完全に開く。キャミソールの寝間着姿がそのまま晒された。
彼の瞳は奇妙だった。いつも冷静なはずなのに、今は波立っていた。夜の海のように深く、底には知らない欲望が渦巻いていた。
一瞬視線が交わっただけで、彼女は焼かれたように慌てて目を逸らし、両腕で胸を抱いて露出を隠そうとした。肩紐の長いキャミソールはあまりに無防備で、不安を煽った。
手が胸に当たり、心臓の鼓動が異様に速く強いことに気づく。掌の中で生きた兎が跳ねるように。
「あなた……」
言いかけた瞬間、冷たい手が頬に触れた。
こんな暑さなのに、彼の体温は驚くほど低い。やはり病気か。
顔を上げ、病院へ行くよう促そうとした。しかし言葉は出なかった。なぜなら彼が唇を重ねてきたから。氷のように冷たい唇が彼女の唇を覆った。
――どうしてこんなことに……
大きく目を見開き、まつ毛が震える。視界はぼやけ、瞬きを二度して少し鮮明になる。見えたのは彼の長い眉と伏せた睫毛。濃く長く、まぶたに触れそうだった。
スマホが床に落ちた。宙を彷徨った手は彼の腕を掴んだ。押しのけたいのか、引き寄せたいのか、自分でも分からなかった。頭は完全に混乱していた。
誰か助けて。
氷は溶け、体温と同じ熱を帯びた。小さな魚のように舌が入り込み、春の水面をかき乱した。
足が震えて立てず、体が崩れそうになる。だが力強い腕に抱き上げられ、無理やり脚を伸ばされた。時間が経つにつれ、ふくらはぎが痛み、痙攣しそうになった。