「失礼ですが、お嬢さん。どちらまで向かわれますか?」
運転手の声に、澪はふいに悲しみと失望の渦から現実へ引き戻された。
目に浮かぶ涙を隠すように、彼女は静かに答えた。
「はい。高速鉄道の駅までお願いします……」
澪にはすでに未来への計画があった。この街をすぐに離れることだ。
父親はすべてを奪った。お金、子供の頃から慣れ親しんだ施設、名前、そして努力して手に入れた学歴までも。でも澪は怯えていなかった。気にも留めなかった。
そんなものは必要なかった。
彼女に必要なのは、頭脳だけだった。考え続けられる限り、生きていける。そう信じていた。
小野グループで、父の助けを借りずに何年もチームを率いてきたのだ。ならば、自分の人生も自分で導けるはず。
新たなスタートを切って、小野拓海が間違っていたと証明してやる。
父の吐いた冷たい言葉を思い出し、澪の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
「いいか、澪。俺の助けなしには、一週間だってやっていけない。金もなければ、すぐに戻って私にすがることになる……だがその時が来ても、俺は決して許さない。決して、お前を受け入れたりはしない、澪!」
(ふん、小野拓海。あなたは完全に間違ってる。私は戻ったりしない……絶対に、ね!)
……
駅に到着しても、澪はすぐにプラットフォームへ向かわず、ロッカーエリアへ足を向けた。
ロッカーのドアに一連の暗証番号を入力すると、カチリと音がして開いた扉の奥には、ノートパソコンサイズの黒いバッグと、小さなバックパックが収められていた。澪は微かに微笑む。
これらは、小野で働いた金を一切使わずに揃えた、唯一の私物だった。誰にも訴えられる理由はない。
荷物を手に取り、澪は人々の流れに紛れて、プラットフォームへと歩き出した。
だが、その途中で――コートのポケットに違和感を覚えた。
中に何かが入っていることに驚いた澪は、足を止めて確認した。
(え……?これ、なに?)
静かな片隅に身を寄せ、ポケットから黒い携帯電話と、小さな封筒を取り出す。
眉をひそめた。コートを着た時、こんなものは入れていなかったはずだ。
慌てて封筒を開くと、中には数枚の紙幣と、きらりと輝くダイヤモンドのペンダントが入っていた。
(……莉緒が入れたの?)
中に折りたたまれていた小さなメモを広げた瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。
「澪へ、これが私にできる、すべて。あなたが生き延びて、そして羽ばたいてくれることを願っています。心配しないで、これは私自身が稼いだお金よ。あなたのお父さんとは無関係。それと、澪……あなたは私の体から生まれた子ではないけれど、心の底から愛しているってこと、わかってほしい。
すべての愛を込めて。
静香より」
「静香さん……もう、どうしてまた泣かせるのよ……」
澪は、嬉しさと切なさが入り混じった声で、そっと呟いた。
澪は人目を気にして涙を堪えていた。
しかし、静香のあまりにも真っ直ぐな愛に胸を打たれ、ついに感情が溢れ出した。光沢のある駅の床を見つめながら、澪は声を殺して泣いた。
気持ちを落ち着け、澪は再び歩き出した。ちょうど、新たな人生へと運んでくれる列車がプラットフォームへ滑り込んでくるところだった。
目的地は、亡き母の故郷――羽ノ森市。高速鉄道で六時間の道のり。
だが、都市部に留まるつもりはなかった。さらに足を伸ばして、白鷺ヶ丘という山間の町へ向かうつもりだった。
白鷺ヶ丘は喧騒やネットの騒がしさ、過去の影から逃れるための静かな場所。
自然の美しさで知られる人気の観光地で、噂やビジネス、政治の見出しから逃れるために人々が訪れる場所だった。
もうすでに海の見えるアパートも手配してあった。出産までそこに滞在し、その後の人生をどう切り開くかを考える予定だった。
……
最終目的地に着いた頃には、空はすっかり暮れていた。
スーツケースを引きながら、五階建ての建物に向かっていたその時――不意に背後から声がかかった。
振り返ると、中年の女性が笑顔で歩み寄ってくる。
「真帆さん……ありがとうございました」
この場所を探してくれた恩人。この町で唯一の知り合いに、澪は安堵と感謝の笑みを浮かべた。
「もう、お礼なんていらないわよ……」真帆さんは彼女をぎゅっと抱きしめ、優しく離すと言った。「澪ちゃんは私の恩人なんだから。これから何があっても、私は味方よ」
「ありがとう、真帆さん……」
真帆さんは玄関まで彼女を案内した。
「はい、上に行って休みなさい。簡単だけど夕食とアパートの鍵よ。疲れてるだろうから、今日はゆっくり休んで。それから……暇な時にでも、うちに寄ってちょうだいね」
優しく肩をぽんと叩き、微笑むと、真帆はそのまま帰っていった。
……
アパートの中に入った澪は、ようやく一息ついた。
間取りは2LDK。モダンなキッチンと居心地の良いリビングルームがあった。
家具はシンプルながらモダンで、部屋は清潔で温もりがあった。豪華さこそなかったが、あれほどのことがあった後で、彼女が心のどこかで望むことすら躊躇っていたほどの、十分すぎる場所だった。
リビングの壁一面には大きな窓が並び、海に面している。
けれど、すでに夜だった。景色は影に包まれ、波の音だけが遠くに聞こえた。
澪は窓辺に立ち、腕を胸の前で緩く組んだまま、水面の上に浮かぶ孤独な月をじっと見つめた。
淡い月の光が窓ガラスに反射し、永遠とも感じられる時間の中で――澪はようやく、呼吸をした。
恐怖ではない。悲しみでもない。それはまるで、長いトンネルの先にある光を見つけたような……安らぎ、静けさ、そして生きていく力を感じさせる呼吸だった。
こんな場所で、こんなに早く、それを感じられるとは思ってもみなかった。すべてを失って追い出されたあとで。名前も、地位も、未来さえも奪われたはずなのに。
それでも今、誰も自分を知らないこの町の小さなアパートで、澪はようやく――自由を感じていた。
新しい名前。新しい家。新しい人生。
澪は目を閉じ、額をそっと窓ガラスに当て、小さく囁いた。
「佐藤澪……ここから始めよう」
月は黙っていたが、その光は彼女のそばにあった。