翌日。目を覚ました時、田中詩織は身支度を整えて薄井鏡夜の会社へ行く準備をした。薄化粧をし、薄手のトレンチコートを着て、ハイヒールを履いて出かけた。
家を出る時、田中明毅から電話がかかってきた。「唯人ちゃんは本当に彼の手の中にいるのか?詩織ちゃん、一人で大丈夫か?」
詩織は深く息を吸い込んだ。彼女の髪が風で舞った。「大丈夫よ。お兄ちゃん、何かあったらすぐ電話するから、安心して出張に行ってきて」
明毅は色々と言い残してから電話を切った。しばらくして、詩織は顔を上げて、決意を固めると、タクシーを拾い、薄井グループへと向かった。
到着すると、詩織は料金を払って車を降りた。ちょうどオフィスワーカーたちの出勤時間で、会社の入り口には多くの人が出入りしていた。詩織が降りてくるのを見て、彼女の方を見た。
トレンチコートを着た彼女のすらりとした姿は、朝日とともに一幅の絵のように美しかった。
彼女は入り口を通り抜けた。艶やかな顔立ちをしており、特にその目は鍛え上げられた鋼のように鋭く冷たく光っていた。彼女は唇をきつく結び、顔には緊張と冷たさを浮かべながら、速い足取りでフロントへと向かった。
受付嬢は彼女のオーラに圧倒されて我を忘れ、しばらくしてようやく「あの...どちら様をお探しですか?」と尋ねた。
「薄井鏡夜」
彼女はそのまま、薄井家の若様の名前を呼び捨てにした。
受付嬢は少し戸惑った。「でも、お嬢様...薄井社長にお会いになるには予約が必要で...」
この会話を聞いて、後ろでは人々がひそひそと話し始めた。
「まさか薄井若様を訪ねてきたの!」
「しーっ、小声にして。あんなに堂々と歩いてるってことは、絶対に後ろ盾があるわよ!」
「そうよ!もしかしたら薄井若様の密かな愛人かもしれないわ」
「薄井若様の密かな愛人?薄井若様が一番愛しているのは安藤さんじゃないの?」
「安藤さん」という名前を聞いた瞬間、心に刃物で切られたような痛みが走り、詩織の顔色はさらに悪くなった。それでも彼女が笑った。「私の名前を伝えれば、薄井鏡夜はすぐに会ってくれるわ」
フロントがこの自信満々な女性は一体何者なのかと尋ねようとした時、背後から声が聞こえた。
「あれ、どうしてここに?」
詩織が振り向くと、先日マセラティを運転して自分に挨拶した江口伊吹がいた。彼は目を細めて笑いながら入ってきて、艶やかな目元が印象的だった。詩織がフロントに立っているのを見て挨拶をした。「やぁ、鏡夜を探してるんだろ?」
フロントは隣町の江口若様がこの女性を知っていることを意識してすぐに彼女を上へ通した。皆が驚いた。この人は一体何者なのか、江口若様まで知っているとは。
詩織はエレベーターホールに入り、伊吹に一言礼を言った。「ありがとうございます」
「礼なんていらないよ」伊吹は笑って手を振った。「俺も彼に用があるんだ。でも先に行ってもいい。それに、この会社には元々田中家の株式もあるんだから、自分の会社に入るのは別におかしくないさ」
「私のことをよく調べたのね」
詩織の声には皮肉が込められていた。それが伊吹への皮肉なのか、自嘲なのかは分からなかった。「残念ながら、もう私のものじゃないけどね」
伊吹は詩織を見て言った。「五年前、本当に鏡夜が君を刑務所に送り込んだのか?」
詩織は何も言わず、ただ微笑んだ。
しかし、その笑みは苦しくて、まるで深淵の中にいる人間のように絶望的だった。
伊吹はそれ以上詮索しなかった。エレベーターが20階に到着すると自動的に開き、二人が一緒に出ると廊下の人々の視線を集めた。
鏡夜はちょうどオフィスで伊吹を待っていた。彼がドアを開けて入ってくるのを見て、その後ろに人がいるのに気づき、冗談めかして言った——
「てめぇ、今じゃ仕事に女連れてくるのか?」
しかし後ろの人物を見た瞬間、表情が一変した。「なぜお前が来た?」
「田中家の血と汗の結晶が薄井グループにあるんだから、来れないわけないでしょう?」
詩織は肩を震わせながらも必死にこらえ、目を赤くして鏡夜を見つめた。
男はオフィスの中央に座り、妖怪のように完璧な顔立ちをしていた。深い目元と際立った輪郭、その容姿よ比肩する人は芸能界でも少なく、まして一般人からすれば、どれほど目立つことか。
この都市では、無数の女性が彼のベッドに上りたがっていた。詩織はかつては彼の妻になること幸運だと思っていた——後ようやく分かった。それが彼女の最も悲しい時だったということ。決して自分のものにならない男を守り続けることが、こんなにも痛いものだとは。
伊吹はこのおかしい雰囲気を感じ、自ら身を引いた。気まずく笑いながら言った。「はは...もし解決すべき問題があるなら...その、先に席を外すよ...」
言い終わらないうちにオフィスから出て、外で待機していた秘書に媚びを売った。「お嬢さん、一緒にお茶でもどう?あなたの社長はしばらく忙しいみたいだし〜」
秘書は喜んで彼に連れられて外へ行き、社長室で何が起こるかなど考えもしなかった。
一方、オフィス内では、ドアが外界のすべてを遮断し、豪華な部屋では、空気が一瞬にして凍りついたように冷え込んだ。
詩織はそこに長い間立ち、ようやく顔を上げて鏡夜を見た。「私が来たことに驚いてる?」
鏡夜は目を細めて眉を上げた。「来ないと思っていた」
「そうね、私も来ないと思ってた」
詩織は笑った。美しい笑顔だった。「この人生で遠くへ逃げ出したいと思ってた。二度と会いたくなかった。なのに今、自分から訪ねてくるなんて。鏡夜、結局私はあなたほど冷酷になれなかったわ」
鏡夜はこの言葉を聞いて怒りが湧き上がり、嘲笑した。「それはただ、田中詩織、お前が自分を貶めているだけだ」
田中詩織、お前が自分を貶めているだけだ。
詩織は黙ったまま、心の中で苦々しく思った。
そうよ、まさに自分を貶めているのよね。
彼女は歯を食いしばり、鏡夜に言った。「息子を取り戻しに来たの」
「俺の息子でもある」
「違う、私だけの息子よ!」
詩織は急に声を荒げた。「五年間育ててきたのは私!刑務所に入れられてから今まで!」
五年、丸五年、光のない暗い日々。可愛い息子がいることを自分に言い聞かせなければ、きっとあの牢獄で死んでいただろう。
田中唯人は彼女の命であり、この人生で誰にも傷つけさせない大切な宝である。
たとえ鏡夜が奪おうとしても、譲らない!
鏡夜は詩織のこの様子を見て、より楽しそうに笑った。「でも認めなよ。唯人の体には確かに俺の血が流れているということだ!」
「そうか...」詩織は涙目で笑った。「この息子を認めたいだなんて。薄井若様、頭が大丈夫?昔、私のことを死ぬほど憎んでいたじゃない!あなたは安藤静だけに子供を産ませたかったんじゃなかった?どうして?殺人犯の息子まで奪いたいの?!」
殺人犯の息子!